吊り荷の下から

午後二時八分、玉里匡史の携帯へ、建設中の四十階から電話が来た。

『親方、ワイヤが鳴いてます』

新人の笹部は、二十トンの外壁ユニットを誘導している。受話口で鋼索が琴のように震え、五十五秒後、吊り荷が作業床を薙ぎ払った。

匡史がクレーンを停止すると、荷が振り子になって笹部を挟んだ。目を開ければ、また二時八分。机の上で赤いチョークが転がる。

吊り荷を誰もいない仮置き台へ下ろし、荷重表示をゼロにする。それが出口だった。

巻き下げ速度を半分にすると、一本目のワイヤが切れ、ユニットが回転した。

作業員を全員退避させた回では、現場監督が工程遅延を理由に再開を命じ、笹部だけが合図のため戻った。

『親方、ワイヤが鳴いてます』

匡史は赤いチョークで鋼索の傷をなぞった。新品のはずのワイヤ内部に、黒い錆が走っている。仕入れを担当したのは匡史の兄で、安い再生鋼索を正規品として納めていた。玉里工業はこの現場の利益で倒産を免れる予定だった。

仮置き台へ向かう旋回範囲には作業員がいる。安全に下ろせる場所はない。ただ一つ、完成したばかりの販売用モデルルーム棟だけが無人だった。そこへ落とせば建物は使えなくなり、発注元は数十億を失う。故意の破壊として匡史も会社も終わる。

次の電話で、匡史は笹部へ言った。

「ワイヤの音を録音して、全員連れて逃げろ」

『荷はどうします』

「下ろさない。落とす」

匡史はクレーンをモデルルーム側へ旋回させ、非常切断装置の封印を割った。監督が無線で怒鳴る。兄からも着信が入る。匡史はどちらも切り、赤いチョークで操作盤に大きな丸を描いた。

切断。

外壁ユニットは誰もいないガラス張りの建物へ落ちた。完成模型も商談室も一息に潰れ、粉塵が噴き上がる。荷重表示がゼロになった。

五十五秒を越えても時間は戻らない。

笹部から無事を告げる電話が来た。匡史は再生鋼索の納品書を監督署へ送信し、クレーンの鍵を抜く。

足元では赤いチョークが二つに折れていた。匡史は片方を証拠袋へ入れ、もう片方で自分の会社名に線を引いた。