名前で呼んでください
郁乃は父と蕎麦屋に入ってから、三度「お前」と呼ばれた。
一度目は注文のときだった。
「お前、天ぷらは食べないだろ」
「郁乃です」
父は聞こえなかったように、ざる蕎麦を二つ頼んだ。
二度目は、仕事の話になったとき。
「お前の会社は休みが多すぎる」
「郁乃って呼んで」
「親子で名前を確認する必要があるか」
「ある。『お前』って言われると、話を聞けなくなる」
父は湯のみを置いた。底が卓上で硬い音を立てる。
「昔からそう呼んでる」
「昔から嫌だった」
「今さら言うな」
「今だから言える」
蕎麦が運ばれてきた。父が勝手に頼んだざる蕎麦の横には、追加の天ぷらが一皿ついていた。郁乃は店員へ温かい鴨南蛮を注文し直した。
「二つも食べるのか」
「ざる蕎麦はお父さんが頼んだものだから」
「もったいない」
「頼む前に聞いて」
父は二枚のざるを前に、機嫌悪そうに箸を割った。郁乃は鴨南蛮が来るまで手をつけなかった。出汁の湯気が立ち上がると、ようやく肩の力が少し抜けた。
三度目は、父が葱をこちらへ押したときだった。
「お前、葱は好きだったな」
郁乃は箸を置いた。
「今日は、これで帰る」
「蕎麦も食わずに?」
「名前で呼ばれない席には座らない」
父の顔に、怒りより先に驚きが浮かんだ。郁乃は鞄を取り、会計票へ手を伸ばす。
「待て」
「何」
父の口が一度閉じた。
「郁乃」
たった三音が、ひどく不器用に出てきた。
「葱、いるか」
謝ってはいなかった。昔の呼び方を二度としないとも言わなかった。郁乃はその不足を不足のまま受け取った。
「今日は、いらない」
「そうか」
「でも蕎麦は食べる」
彼女は鞄を椅子へ戻した。父は葱を自分のざるへ入れた。二枚目には手をつけず、店員を呼んで持ち帰れるか尋ねた。
食事の終わり、父が伝票を持った。
「郁乃の分は」
「自分で払う」
「分かった、郁乃」
二度目の名前は、最初より少し自然だった。
店の外で別れるとき、父は手を上げただけだった。郁乃も同じように手を上げた。「お父さん」とは呼ばなかった。
互いの名前をまだ一つずつしか使えなくても、それは「お前」と「娘」だけだった関係より、少し広い場所だった。