名前のない相合傘

峰岸紬希の机には、名前のない相合傘があった。

傘だけが大きく描かれ、左右の欄は空白。誰かが途中で怖くなったような落書きだった。

放課後、長瀬朔矢が窓を閉めに来て、それを見つけた。

「完成させないの?」

「私が描いたんじゃない」

「じゃあ借りよう」

朔矢は鉛筆を持った。紬希は反射的に手を押さえる。

「名前を書いたら、誰かに見られる」

「誰もいない」

「明日はいる」

「消せばいい」

教室には夕日が満ちていた。二人の影は机を越え、空白の傘の上で重なる。窓を閉めたあとの静けさには、鉛筆の芯が天板を擦る音まで聞こえた。

朔矢とは、中学から同じクラスだった。告白も約束もないまま、雨の日だけ自然に同じ傘へ入る。肩が濡れた方が翌日ジュースをおごる、という決まりだけがある。晴れた日は別々の友人と帰る。その関係に名前をつけなければ、失う理由もないと思っていた。

「峰岸、空白好きだよね」

「何それ」

「進路票も、委員会希望も、好きな人の話も」

「長瀬は書きすぎ。何でも欄を埋める」

「空いてると不安だから」

朔矢の鉛筆が傘の左へ近づく。

「書かないで」

「じゃあ、何ならいい?」

紬希は答えられなかった。夕日が弱くなり、空白は白ではなく灰色になった。

「名前を書いたら、終わる気がする」

「始まるかもしれない」

「始まったら、いつか終わる」

「始まらなくても、卒業したら終わるよ」

朔矢は残酷なほど普通の声で言った。

紬希は鉛筆を受け取り、左の欄に一文字だけ書いた。

――今。

朔矢は右の欄を見て、同じ字を書いた。

相合傘の下に「今」と「今」が並ぶ。名前ではない。関係でもない。今日の夕方だけを閉じ込めた印だった。

「これなら明日見られても分からない」

「俺たちにも分からない」

「それでいい」

下校放送が終わり、二人は教室を出た。外は晴れていた。傘を共有する理由はない。

それでも昇降口から駅まで、二人の肩は離れなかった。机の上では、名前のない二つの今が、消されるまで同じ傘に入っていた。