売却前夜

広瀬夕佳の誕生日、食卓には赤飯と不動産契約書があった。

義母の靖恵は祝いの言葉より先に言った。

「あなたの駅前マンション、いい値で売れたわよ」

義父の忠興は新しい平屋の図面を広げ、夫の兼人は母へ酒を注ぐ。

「夕佳の部屋は一人暮らしのときのものだろ。結婚した今は家族の資産だ」

夕佳が結婚前に買ったマンションは、賃貸に出していた。売却を断ると、三人は「嫁のくせに老後の家を惜しむ」と責め続けた。そしてとうとう、兼人が持ち出した実印と、靖恵が作った委任状で契約を進めた。

「引き渡しは明日よ」

靖恵が笑う。

「今さら騒げば違約金。素直に印鑑証明を出しなさい」

夕佳は赤飯の横へ、売買契約解除通知を置いた。

買主と仲介会社には、すでに所有者本人から連絡してある。司法書士は署名の不一致に気づき、登記申請を停止。防犯映像には、兼人が夕佳の金庫から実印を持ち出す姿が残っていた。

兼人が声を低くする。

「家族のためにやった。被害届なんて出すなよ」

夕佳の弁護士が入室した。続いて仲介会社の責任者と、建築会社の担当者も現れる。

弁護士は請求内容を読み上げた。

「実印の窃取、委任状の偽造、財産処分の強要、長期の経済的虐待。三名へ慰謝料一千二百万円、調査費、休業損害、財産侵害による損害を合わせ、三千万円を請求します」

忠興が図面を丸めた。

「マンションが売れなければ、新居の代金が払えん!」

建築会社の担当者が答えた。

「着工金は返還できません。残代金の融資は、売却代金を前提としていましたので取り消されます」

靖恵は夕佳へ手を伸ばした。

「だったら一度だけ売って、あとで買い戻せばいいでしょう。家族なんだから」

弁護士はもう一通の決定書を置いた。三人が新居資金の担保に入れた現在の自宅、忠興の退職金口座、兼人の預金への仮差押命令。

玄関の外で、警察官が偽造委任状の原本を受け取っていた。

夕佳は誕生日のろうそくを吹き消す代わりに、売却契約書を三人の前で閉じた。

「明日、引き渡されるのはマンションじゃない。告訴状です」