売却済みの実家
結城己冬が古い留守番電話を再生すると、十五年前の自分へ一文を送れることに気づいた。
〈父さんに、家の売買契約へ判子を押すなと言え。〉
再開発で更地になった実家。跡地の高層ビルを見下ろす賃貸部屋で、己冬は赤く点滅する留守番電話を握った。十五年前、父が家を売らなければ、祖父の工房も、庭の柿の木も残る。過去が変わり、現在に実家が存在すれば成功。それが装置の表示した条件だった。
一文を送ると、窓の外のビルが消えた。代わりに実家からの督促状が机に積まれている。父は売却を断り、借金を抱えたまま倒れた。留守番電話が再び点滅した。
二周目は「借金を整理してから判子を押すな」。四周目は土地の値上がり時期を教えた。戻るたび、赤い光と、母の同じ録音が残る。
『己冬、たまには帰っておいで』
六周目、実家は残り、借金もない。しかし己冬は家を守るため地元へ戻り、希望していた設計の仕事を辞めていた。八周目では工房を貸し、十周目では柿の木だけを保存した。
十一周目、理想に近い現在になった。改修された実家、健在の父母、庭の柿。成功条件達成。
だが食卓の引き出しから、家族会議の記録が出てきた。家を残すため、妹は進学を諦め、母は長年の離婚希望を取り下げ、父は工房を続けた。誰も己冬に言わず、「帰る場所」を維持する費用を払っていた。
留守番電話が最後の一文を求める。赤い光の向こうで、十五歳の己冬が受話器を取る。
己冬は「判子を押すな」を消した。
〈家は売れ、俺の部屋も柿の木も片づけていいと皆へ伝えろ。〉
現在が揺れた。
高層ビルが窓の外へ戻り、父は地方のアパート、母は別の町、妹は大学を出て海外にいた。実家の写真は一枚も残っていない。再開発の補償金も、己冬が独立時に使い切っていた。
留守番電話の赤い光は消え、母の録音もなくなった。
己冬は跡地の公開庭園で、コンビニの柿を一つ食べた。硬くて甘くない。帰る家を失った味は、記憶の柿より確かで、時間はその先へ静かに続いていた。