夫の怒りを半分
安居院璃央は、結婚した日に夫の怒りを半分引き受けた。
夫婦間暴力を防ぐ「感情共有契約」では、一方の怒りが危険値へ近づくと、配偶者のチップへ負荷が分散される。怒っている本人は冷静になり、もう一人が軽い苛立ちとして受け止める。制度導入後、家庭内の傷害事件は大きく減った。
夫の岳臣はもともと穏やかだった。職場で叱責されても笑って帰り、璃央には「大丈夫」と言った。ただその夜、璃央が理由もなく食器を乱暴に置き、眠る娘の泣き声に苛立った。自分の感情だと思っていたが、記録を見ると、岳臣の怒りが転送されていた。
負荷は少しずつ増えた。岳臣は上司への怒り、満員電車への怒り、老いた父への怒りを自覚しないまま、璃央へ流した。彼はますます優しい夫になり、璃央は短気な母になった。
娘が描いた家族の絵では、父は笑い、母だけ口から赤い火を吐いていた。
璃央は共有率を下げてほしいと頼んだ。岳臣は驚いた。
「僕は怒ってないよ」
「だから困ってるの。あなたが感じる前に、私へ来るから」
「でも、解除すると危険だって」
「誰にとって?」
相談窓口AIは、夫に暴力歴がない以上、契約維持が家族安定に寄与すると回答した。璃央の苛立ちは個人の情緒不安定として治療を勧められた。
ある晩、岳臣が昇進を逃した。彼は笑顔で乾杯しようとした瞬間、璃央の中へ猛烈な怒りが流れ込んだ。グラスを投げたい衝動に襲われ、避けようとして娘を突き飛ばした。
怪我はなかった。泣く娘を抱きながら、璃央は共有線を切断した。
岳臣は床に膝をついた。数年分の怒りが本人へ戻り、叫び、壁を殴り、やがて「怖い」と泣いた。璃央は娘を連れて家を出た。夫を罰するためではなく、彼が自分の感情を扱えるようになるまで、受け皿をやめるためだった。
半年後、二人は別居したまま家族療法を受けた。岳臣は怒ったときに拳を開く練習をし、璃央は自分の苛立ちと他人のものを区別する日記をつけた。
娘の新しい絵では、父も母も小さな赤い火を吐いている。二人の間には広い空白があり、火は届かない。
璃央はその空白を、失敗ではなく境界と呼んだ。愛することは、相手の感情を半分引き受けることではない。相手が自分で持てる距離を残すことだった。