存在しない初版本
王立図書館の夜間閲覧会で、コルベール公子は一冊の豪華本を掲げた。
「古典詩人の初版本を購入すると偽り、代金三千金貨を横領した。購入担当のイレーネ以外に犯人はいない。婚約を破棄する」
革装丁の本には王立図書館の蔵書印があり、請求額も記されている。だが中身は粗悪な複製だった。
イレーネは蔵書予算を守るため、王族から持ち込まれた本でも価値がなければ断ってきた。その態度は「本にしか心を持たない悪役令嬢」と嘲られた。今夜は、その厳格さを知る者ほど、逆恨みで金を抜いたのだろうと納得した顔をしていた。
イレーネは本を受け取ると、最終頁を開いた。紙の匂いを嗅いだだけで複製と分かったが、彼女の鑑定眼を信じない者に説明を重ねても意味はない。必要なのは感想ではなく、本に残った来歴だった。
「この本が、私の購入した品だと断言なさいますか」
「蔵書印がある」
「では、本自身の来歴を確かめましょう」
書庫王子テオドールが、最終頁の小さな蔦模様へ指を置いた。王立蔵書の装丁には、所有者が変わるたび名を刻む《来歴蔦》が一本だけ織り込まれる。消去も追記もできない。
金色の蔦が頁を這った。
――前所有者、コルベール・シェラン。
――売却先、王立図書館。
――売却額、三千金貨。
――購入承認者欄、偽造。
コルベールが自分の複製本を国へ高値で売り、その支出をイレーネの横領に見せかけていた。
「家に伝わる本だから価値はある」と彼は強弁した。「婚約破棄は撤回する。お前が鑑定書を書けば、正式な購入になる」
イレーネは本を閉じた。
「存在しない価値へ、私の名を栞に使わないでください」
婚約の細い鎖を外し、複製本の間へ挟む。ただし栞のように頁を残さず、表紙を閉じて過去ごと封じた。
彼女が背を向けると、テオドールは禁書庫へ続く螺旋階段の前で手を差し出していた。新しい収集規則を共に作るか、彼女の返事を待つ手だった。
イレーネは偽物の初版本を机に残し、まだ誰も読んでいない頁へ進むように、その手を取った。