封をしない段ボール
引っ越し業者の到着まで、あと十分だった。
征司は空になったリビングで、最後の段ボールを閉じられずにいた。中には二人で選んだマグカップ、使わなくなったゲーム機、亜沙美が置いていった小さな加湿器が入っている。
「それ、私の」
「持っていく?」
「迷ってる」
亜沙美は来週、名古屋支社へ転勤する。征司は東京に残る。遠距離を試す話も出ないまま、先月別れた。征司は彼女の新幹線の指定席まで予約し、窓側を選んだ。亜沙美が車窓を好きだからだった。気遣いだけは完璧で、寂しいという一言だけがなかった。
スマートスピーカーを初期化しようと、征司が管理アプリを開く。音声メモの下書きが一件残っていた。亜沙美の声を文字に起こしたものだ。
〈一緒に来てほしい。仕事を辞めてとは言えない。でも、私だけを行かせないで〉
作成日は、転勤を告げた夜。送信先は征司だった。
「これ、録音したの」
「言う練習」
「送ってない」
「あなたが『応援する』って笑ったから」
征司は、良い恋人でいようとした。転勤を喜び、引っ越し先を調べ、名古屋の店まで一覧にした。亜沙美が何度も「それだけ?」と聞いた意味を、冗談だと思っていた。
「俺は、足を引っ張りたくなかった」
「私は、足をつかんでほしかった」
トラックのエンジン音が窓の下で止まる。残り六分。
「今から会社に相談する」
「もう部屋を借りた」
「解約できる」
「あなたが来る理由が、下書きを見たからになる」
「それじゃ駄目?」
「私が言えなかったことを、あなたの決断にしたくない」
亜沙美の声は責めるより疲れていた。その疲れを、征司は転勤準備のせいだと思っていた。
征司は反論できなかった。彼女の望みを知った今になって動けば、愛情なのか後悔なのか、自分でも分からない。
亜沙美はアプリから下書きを削除した。音声データも同時に消え、部屋から彼女の声が一つ減った。
インターホンが鳴る。作業員が入ってきて、箱を閉じていいか尋ねた。
征司はマグカップを一つ取り出し、亜沙美へ渡した。彼女は青い方を受け取り、赤い方を箱へ戻す。
「加湿器は?」
「置いていく。乾燥するでしょ」
作業員がテープを引き出す音がした。
征司は何も足さず、最後の段ボールの封をした。