山を一歩だけどける
「眠る魔物の寝床を一歩動かすだけ? 藁を引けば済む話だ」
山岳庁の技能審査で、リグネは無能とされた。
【技能:《寝床ずらし》――眠っている魔物と、その寝床をひとまとめに一歩ぶん移す】
起こすことも方向を変えることもできず、一度の眠りに一回だけ。リグネは山間の寒村へ追われ、山そのものに見える老甲獣モウラのそばで暮らした。
モウラは千年眠っていた。甲羅には杉林が育ち、くぼみに雨水が溜まり、鹿や小妖精が住む。リグネは落ち枝を拾い、甲羅の苔を傷めぬよう小道を直した。村人は山だと思っていたが、冬の朝に地面から聞こえる寝息だけが、彼女にはよく分かった。
夏、村の川が突然枯れた。
上流を調べると、モウラが眠りながら前脚を伸ばし、湧き口を甲羅の縁で塞いでいた。井戸は三日で底を見せ、棚田はひび割れる。山王ヘルダンは岩盤を爆破せよと命じた。
「爆破すれば、この子が起きます」
「起きれば討つ。山を一つ失うだけだ」
だがモウラが起き上がれば、甲羅の森も、そこに住む魔物も谷へ落ちる。討てば麓まで毒の血が流れる。
リグネは乾いた湧き口と、甲羅の端のわずかな隙間を測った。必要なのは山を砕くことではない。人間の一歩ほど、横へずれてくれれば水は出る。
彼女は苔の上へ登り、いつも寝息を聞く場所へ掌を置いた。
《寝床ずらし》。
森が、音もなく一歩だけ動いた。
杉の梢は同じ風に揺れたまま、鳥も飛び立たない。モウラは目を覚まさず、寝返りさえ打たない。ただ甲羅の縁が湧き口から外れ、透明な水が最初は糸のように、次には腕ほどの流れとなって谷へ落ちた。
村人は桶を並べ、子供たちは戻った川を裸足で追った。甲羅の小妖精も新しい位置へ橋を架け、モウラの鼻先にはリグネが花を一輪置いた。
審査官が「たった一歩だ」と言う。
ヘルダンは爆破命令書を裂き、山岳庁の測量杖をリグネへ渡した。
「王は山を動かすと言えば軍を集める」
山王は一歩ぶんずれた森へ頭を下げた。
「山を眠らせたまま水だけ通した者を、我が国では山守と呼ぶことにする」