山小屋の消灯後
高峰史織、戸倉慎平、柚原夏帆は、卒業旅行で雪山の山小屋に泊まった。消灯後、十人部屋の客は寝静まり、三人だけが寝袋から顔を出して囁いた。
「春から林業組合」と慎平が言った。「この山の反対側」
史織が暗闇で笑う。「都会嫌い、貫いたね」
「研究所はどうした?」と夏帆。
「断った。木を数えるより、切る方が向いてる」
史織は天井の梁を見た。「私は東京の研究所に行く。山の雪を衛星で測る」
慎平が「お前が都会か」と驚く。
「現場には年に一度しか来ないらしい」
二人は夏帆の返事を待った。彼女は寝袋のファスナーを顎まで上げた。
「私は就職しない。弟のところへ戻る。学校に行けなくなってるから」
「いつまで?」と史織。
「分からない」
慎平が「夏帆の人生だろ」と言う。
「家族も私の人生に入ってる」
ストーブの火が小さく鳴った。三人は登山サークルで、卒業後も毎年一座ずつ登る計画を立てていた。初めて登った山で夏帆が足を挫いた時、慎平と史織は左右から肩を貸し、三時間遅れで下山した。それ以来、三人の合言葉は「一番遅い人が隊長」だった。
「今度は待てない」と夏帆が言った。
慎平が寝袋から腕を出す。「弟を連れてくればいい」
「人の人生を登山計画みたいに組まないで」
史織が止める前に、夏帆は背を向けた。
慎平は山に残り、史織は空から山を見て、夏帆は登ること自体をやめる。三人の隊長が誰なのか、もう決める必要はなかった。
「来年、ここ集合」と慎平。
「衛星画像で参加する」と史織。
夏帆は笑わなかった。「そういう約束、もう作らないで」
隣の寝台で誰かが寝返りを打ち、会話は途切れた。
夜明け前、夏帆は一人で下山した。家から連絡があったという。史織と慎平が起きた時、彼女の寝袋はきれいに畳まれ、枕元に三人分の行動食が置かれていた。
下山口で、慎平は組合の車へ、史織は高速バスへ乗った。夏帆が使った登山杖だけが山小屋の忘れ物棚に残った。
柄には三人の名を削って刻んだ跡があった。夏帆の名前だけ、何度も握られて浅く消えかけていた。