川音に遅れるピアノ
芥子川椿希は、演奏会で途中から指が動かなくなった。
曲を止め、最初から弾き直し、最後までは終えた。
客席は温かく拍手してくれたが、その優しさまで失敗を囲む布のように感じられた。
椿希は川沿いの温泉町へ行った。
宿の食堂には古いアップライトピアノが置かれている。
「弾いてもいいですよ」
宿の青年が言ったが、椿希は首を振った。
「今日は聞きたくないんです」
「では、川の方がうるさい部屋にします」
案内された部屋は、窓のすぐ下を川が流れていた。
水音は一定ではなく、岩へ当たるたび高くなったり低くなったりする。
夜、椿希は演奏会の録音を再生しようとしたが、川音で細部が聞こえない。
諦めて携帯を閉じた。
翌朝、食堂へ行くと、青年がピアノの蓋を開け、鍵盤の埃を拭いていた。
「調律は?」
「年に一度。今は少し下がってます」
「気にならないんですか」
「朝食のお客さんは、味噌汁の方を気にするので」
椿希は一音だけ押した。
思ったより低く、少し揺れる音だった。
川の音が重なり、正確な高さは分からない。
もう一音、次の音。曲ではなく、川の隙間へ置くように鍵盤を鳴らした。
食堂の隅で、幼い子どもが朝食を待っていた。
椿希の音へ合わせ、匙で卓を叩き始める。
拍子は不規則で、時々完全に外れた。
「合わせにくい」
椿希が笑うと、青年は味噌汁を運びながら言った。
「川よりは素直です」
椿希は短い童謡を弾いた。
子どもの匙は途中で止まり、また遅れて入る。
演奏会なら崩れるはずのテンポが、ここでは可笑しく、温かかった。
朝食には、川魚の甘露煮と山椒の味噌汁が出た。
山椒の青い香りが湯気へ立ち、甘露煮の骨は柔らかく煮えている。
椿希は窓際で食べ、食後にもう一度だけピアノへ触れた。
帰る前、青年が言った。
「今度は曲を聞かせてください」
「止まるかもしれません」
「川も止まったら困りますが、ピアノなら待てます」
列車の中で、椿希は失敗した録音を削除しなかった。
止まった場所まで聴き、そこで一度停止する。
窓の外の川が遠ざかり、上着には味噌と山椒の香りが残っていた。
次に弾くときは、遅れた音も曲へ戻れるだけの余白を、自分の中に一小節だけ作っておこうと思った。