左右を逆に結ぶ朝
蟹江朱莉は、兄の登山靴を処分できずにいた。
兄は八年前、海外の山で行方不明になった。出発の朝、朱莉は見送りに行かなかった。
進学を諦めて家業を手伝っていた朱莉に、兄は「自分の人生を俺のせいにするな」と言った。正しいことを言われた腹いせに、朱莉は「二度と帰ってこなくていい」と返した。
それが最後の会話になった。
捜索が打ち切られたあと、兄の荷物だけが返ってきた。手袋、地図、使いかけの日焼け止め。登山靴は出発前に履き替えた予備で、玄関に残されていた。朱莉は、兄が戻る場所を残すように、毎年その泥を拭いた。
靴紐を左右逆に結ぶと、朱莉は八年前の朝に目を覚ました。
二十二歳の手。隣の部屋では、兄が荷物を詰めている。逆結びの紐がほどけるまで、この朝にいられる。
朱莉は靴を抱えて兄の部屋へ入った。
「それ、持っていくやつ」
兄が言う。
「行かないで」
言えば止まると思った。兄は首を振った。
「無理」
「死ぬかもしれない」
「山だからな」
「知ってるの?」
「何を」
朱莉は、兄が戻らない未来を説明できなかった。説明したところで、兄が信じるとも思えない。
靴紐の輪が少し緩む。
「私、大学に行きたかった」
朱莉は初めて、怒りではなく本当のことを言った。
「知ってる」
「お兄ちゃんだけ好きなことして、ずるいと思ってた」
「うん」
「帰ってきたら、学費を返してもらうつもりだった」
兄は笑った。
「帰る理由ができた」
朱莉は泣いた。
止めたい。靴を隠せばいい。紐を切ればいい。けれど兄は別の靴で行くだろう。八年考えて、ようやく分かった。最後の朝に足りなかったのは、予言ではなく別れの言葉だった。
朱莉は膝をつき、靴紐を正しく結び直した。
「行ってらっしゃい」
兄の顔から笑みが消えた。
「それ、初めて言われた」
「帰ってきて」
「努力する」
最後の結び目がほどけ、現在へ戻った。
靴の中に、古い搭乗券が入っていた。裏に兄の字がある。
《行ってきます。朱莉も行きたい場所へ行け》
翌春、朱莉は三十歳で大学へ入った。
卒業旅行には、兄の登山靴を持っていかなかった。
代わりに自分の靴を買い、左右を確かめて、きつく結んだ。