巻き戻した雨
乾志津は、喫茶「夜航」の閉店時刻を知らせる雨音を、本物だと思っていた。
窓の外は晴れている。音はカウンターの古いデッキから流れていた。透明なケースに入った一本のカセットテープが回り、店内に細かな雨粒と遠い食器の触れる音を満たしている。
ラベルには、「六月十七日 夜航」と手書きされていた。店で録った環境音らしい。今夜で店を閉じるため、そのテープにも値札がついている。
志津は地域ラジオの番組制作をしていた。担当していた深夜番組は先月で終了し、代わりに個人配信の音声番組を任せたいと言われている。機材も規模も小さく、局名も放送時間もつかない。終わったものの廉価版を作るようで、返事を延ばしていた。期限は今夜だった。
店主がデッキの停止ボタンを押す。雨が途中で切れた。
志津がテープを買うと告げると、店主は取り出す前に巻き戻しを押した。小窓のリールが勢いよく逆に回る。録音された雨が消えているわけではない。ただ、聞き始める位置が最初へ戻っていく。
カウンターの数字が「000」になると、店主は再生を一秒だけ押した。
最初に入っていたのは雨ではなく、録音ボタンを触る小さな音と、椅子を引く気配だった。そこから雨が始まる前に止め、テープをケースへ戻す。ラベルの文字が読める向きで紙帯をかけた。
志津は依頼メールを開いた。
企画名の欄は空白だ。ラジオの続きを名乗る必要はない。深夜でなくても、局の電波でなくても、耳へ届く話は作れる。
「試作三回分、担当します」
そう返信した。長期継続の約束まではしない。まず三回、自分の声と誰かの声がどんな距離で聞こえるか確かめる。
送信後、店主はデッキの電源を抜いた。もうこの店でテープが回ることはない。
志津は包みを耳元で軽く振った。中のリールがかすかに鳴る。
巻き戻すことと、同じ番組へ戻ることは違う。零から再生しても、テープにはこれまで録られた雨が残っている。
店を出た志津は、スマートフォンの録音機能を開いた。晴れた夜の街の音を、試作第一回の冒頭として十秒だけ録った。