希望を食べた予言

 予言を外す燕の精霊は、人が心から望む未来を一つ食べる。

 一つの希望と引き換えに、書かれた運命を一行だけ白紙にする。

 チェルナは夜明け前の礼拝堂で、黒い予言書を開いた。

 ――エヴァンは、春の鐘が七度鳴る前に息絶える。

 恋人は隣室で眠っている。胸には戦場で受けた呪いの痣が広がり、鐘が鳴るたび心臓へ近づいていた。治療師も祈祷師も、予言に書かれた死は治せないと言った。

「希望を選べ」

 祭壇の燕が囀る。

「叶う可能性が高いほど、よい餌になる」

 チェルナは小さな希望から差し出した。

 来月の祭りで新しい靴を履くこと。

 燕は首を振る。

「軽すぎる」

 仕立ての店を持つこと。

「まだ軽い」

 母と仲直りすること。

 燕は少し迷ったが、予言書の文字は消えなかった。

「その男と望んだ未来があるだろう」

 チェルナの指には、まだ誰にも見せていない銀の輪がある。

 エヴァンが出征前に渡し、「帰ったら、家を探そう」と言った。川の見える台所。壁一面の本棚。休日には二人で市場へ行き、帰り道で必ず余計な菓子を買う。

 具体的で、平凡で、何度も胸の中に建てた未来だった。

 それを食べさせれば、彼は死なない。

 けれどチェルナは、彼と暮らしたいと思えなくなる。愛が消えるわけではない。ただ、その先を願う力がなくなる。

 隣室から咳が聞こえた。

 エヴァンが起き、壁越しに彼女の名を呼ぶ。

「そこにいる?」

「いるよ」

「鐘が鳴る前に、顔を見たい」

 六度目の鐘が街を震わせた。

 窓が白み始める。燕が嘴を開き、待っている。

 チェルナは銀の輪を外した。

 将来の台所から湯気が消える。本棚から彼の本が抜ける。市場を並んで歩く二つの影が、一つになる。

 まだ起きていないのに、どの思い出より手放しがたかった。

「これを食べて」

 輪を燕の前へ置く。

「私が彼と年を取る未来を」

 燕が胸から金色の糸を引き出した。

 エヴァンの白髪をからかう自分。互いの歩幅が遅くなっても手をつなぐ二人。最後に同じ家で別れられたらと願った夜。

 糸は細くなり、予言書の文字が一画ずつ剥がれる。

 七度目の鐘が鳴った。

 隣室で痣が砕ける音がする。

「チェルナ」

 扉が開き、エヴァンが立っていた。

 生きている。顔を見れば愛しさは残っている。

 彼は床の輪を拾い、震える笑顔で彼女の指へ戻そうとした。

「約束の続きをしよう」

 燕が最後の希望を飲み込んだ。

 チェルナは指を曲げた。

 その輪を受け取った先に、もう何一つ思い描けなかった。