幸福を一枚払う
カイロと別れて半年、私は最後の言葉だけを毎晩思い出していた。
――君といると、自分まで小さくなる。
喧嘩の勢いではなかった。彼は静かに言い、合鍵を置いて出ていった。その静けさが、刃物より深く残った。
昼は普通に働けた。友人と食事もできた。新しい部屋へ引っ越し、髪も切った。それでも誰かに意見を求められるたび、私は自分の答えを飲み込んだ。大きく振る舞えば、また誰かを小さくするのではないかと思った。
忘れたいのは彼ではなく、彼の言葉で自分を見る癖だった。
「記憶を消す店」では、一つの記憶を消すために、同じ相手との別の記憶を一つ払う。
「この別れを消してください」
店主は二枚の薄い硝子板を並べた。
片方には、最後の夜。
もう片方には、代金として選べる記憶が映る。
初めて手をつないだ夕暮れ。狭い台所で踊った夜。高熱の私へ、彼が不格好な粥を作った朝。
どれを選んでも、別れた後の私を支えたものまで失う気がした。幸福は終わったから無価値になるのではなく、終わった後にも人を温める。それを代金にする店なのだ。
そして、海辺の町で一日じゅう何もしなかった休日。風に飛ばされた帽子を追い、二人で砂まみれになった。帰りの馬車で、私はこの人となら平凡な日を何年でも重ねられると思った。
「幸せな記憶ほど、よく消えます」と店主が言う。
私は海辺の一日を選んだ。
最後の言葉から自由になりたかった。自分を小さくする人間なのではないかと、もう考えたくなかった。
二枚の硝子を重ねる。
静かな別れが白く曇った。同時に、海の色も、砂の熱も、馬車で眠る彼の肩も消えていく。
取引が終わると、胸を刺していた一文はなくなった。
カイロと別れた事実は覚えている。好きだったことも知っている。けれど、なぜあれほど好きだったのかだけが、きれいに欠けていた。
店を出たところで、手帳から押し花が落ちた。
海辺に咲く、小さな青い花だった。
私は拾い上げ、知らない幸福の代金を、そっと頁へ戻した。