延命プラン

羽鳥律は毎朝、母の《アンカー》を更新する。認知症患者は月額契約で一人だけ、顔と関係を確実に覚えていられる。二人目を登録すると最初の一人が外れる。それが介護保険の規則だった。

登録されているのは律だった。姉妹も親戚も候補になったが、通院へ付き添い、服薬を管理してきた時間が最も長いという理由で、母自身が律を選んだ。

母の千登勢は、息子の顔を見るたび「律、おはよう」と言う。曜日も病室も分からない日でも、名前だけは間違えない。律はその一言のため、早番の前に病院へ寄り、月末には更新確認を押した。

父の晃正は十年前に死んでいる。千登勢は夫の写真を見ても「親戚の人?」と首を傾げた。律は寂しかったが、少し安心もしていた。死者より、生きて世話をする自分が選ばれている。

ある朝、更新画面に見慣れない申請が出た。

〈患者本人からアンカー変更の意思を検出しました〉

〈羽鳥律から羽鳥晃正へ変更します〉

律は看護師を呼んだ。母は文字入力もできない。

「睡眠中の発話と情動反応から、継続的な希望が確認されたそうです」と看護師は言った。「本人の選択は家族でも止められません」

律は母のベッド脇へ座った。

「父さんはもういないよ。俺を外したら、誰が来てるか分からなくなる」

千登勢は困った顔をした。今はまだ律を知っている。

「でもね、あの人、ずっと迎えに来ないの」

変更まで一分。

律は拒否ボタンを探した。なかった。アンカーは患者自身のための記憶で、家族の所有物ではない。

「母さん。俺、律だよ」

「分かってるよ」

「もう一回言って」

千登勢は笑った。

「律」

判定音が鳴った。

母の目がいったん閉じ、また開いた。律を見て、丁寧に頭を下げる。

「主人がお世話になっています」

その声は、初対面の他人へ向けるものだった。

律の端末に請求が届いた。

〈新しいアンカーの維持費は、現契約者へ引き続き請求されます〉

父を覚えている母を守るために、母から忘れられた息子が支払い続ける。

律は更新ボタンを押した。母は枕元の写真へ微笑み、「晃正さん」と正しく呼んだ。