弟の命は婚約条件ではない

千鶴は弟・直樹の治療費と引き換えに、宗一郎との婚約へ署名した。彼は「家族になるのだから当然」と笑ったが、結婚準備が始まると薬代を盾に服装も仕事も交友関係も支配した。最後には治療費を止め、弟も婚約も失った。

病院の屋上から身を投げたはずの千鶴は、最初の契約面談へ戻っていた。

白い病院封筒。黒い万年筆。宗一郎は前と同じ台詞で封筒を押し出す。

「これで弟さんも安心だ」

一度目は泣いて礼を言い、署名した。今度は封筒を開けず、そのまま返す。

「弟の命を婚約条件にはしません」

宗一郎の叔父が鼻で笑った。

「では手術を諦めるのかね」

「いいえ。希少疾患支援制度を使います」

前の人生で直樹の死後に見つけた制度だった。申請期限は今日の午後五時。宗一郎の家は、千鶴が逃げられないよう案内書を病院から抜き取っていた。

彼女は鞄から申請書の控えを出す。すでに担当医・辰巳の署名も揃っている。面談前に窓口へ提出してきた。

宗一郎の笑顔が消えた。

「誰に教わった」

「あなたではない誰かです」

「支援金だけで足りると思うな。婚約を断れば、うちの病院系列には――」

そこで会議室の扉が開いた。辰巳と監査担当者が入ってくる。制度案内の抜き取りと、治療を私的契約へ利用した疑いを調べるためだ。

宗一郎の叔父が立ち上がる。

「家族間の善意を誤解している」

「善意なら、返済義務も服従条項も不要ですね」

千鶴は婚約契約を一枚ずつ破った。前回なら胸を締めつけた音が、今は乾いた紙の音にしか聞こえない。

監査担当者は黒い万年筆も証拠袋へ入れた。軸の中には、署名した者へ服従暗示をかける薬が仕込まれていた。千鶴が一度も蓋を開けなかったことで、企みは効力を持つ前に終わった。

その瞬間、彼女のスマートフォンが鳴った。以前は宗一郎から《署名確認》が届いた時刻だった。

《支援制度承認。直樹さんの手術枠を確定しました》

千鶴が画面を見せると、宗一郎は初めて頼む側の声になった。

「待ってくれ。婚約の話だけでも続けよう」

「弟が安心できる未来に、あなたは含まれていません」

黒い万年筆は、最後まで一滴も使われなかった。