影の値段は秘密一つ

一夜市場には、盗まれた影だけを扱う店があった。ナシュカは灯りの下へ立ち、自分の足元が空白であることを見せた。

「返してほしい」

店主は棚から細長い箱を下ろした。蓋の隙間で、黒いものが怯えるように揺れている。

「影を買い戻す代金は、誰にも知られたくない秘密を一つ、ここで声に出すこと。市場で聞かれた秘密は、聞いた者の記憶から消えない」

明日は妹メルの婚礼だった。影のない者は祝いの席へ入れない。悪いものが新しい家庭に憑くと嫌われるからだ。

盗まれたのは昨夜。犯人に心当たりはない。けれど代金にする秘密には、心当たりが一つしかなかった。

三年前、メルが愛した旅人へ、ナシュカは偽の手紙を送った。

――彼女はあなたを選ばない。もう来ないで。

家に残るのが自分一人になるのが怖かった。妹が遠くへ行く未来を、姉という立場で潰した。旅人は去り、メルは何かを諦めた顔で、明日別の人と結婚する。婚約者は誠実な人だ。それでも妹が青い婚礼衣装を選ぶたび、昔の旅人が好んだ色だと、姉だけは気づいていた。

秘密を言えば、妹は婚礼をやめるかもしれない。二度と姉と呼ばないかもしれない。

言わなければ影は戻らず、祝いの席には入れない。それは罰として相応しいとも思えた。

「影なしでも生きられる?」

「生きられるよ。明るい場所で、誰にも同じ側へ立ってもらえないだけだ」

市場には人が多かった。香料商、剣売り、占い師、客たち。ここで告白すれば、秘密は百人の頭に残る。噂は朝より早く町へ着く。

ナシュカは箱へ手を置いた。中の影が指の形に合わせて伸びた。自分の弱さから生まれた秘密を、自分の足元へ戻すために話す。その取引はひどく正確だった。

息を吸う。

そのとき人混みの奥に、婚礼用の青い外套が見えた。メルだった。姉の影を探しに、市場まで来たのだろう。

目が合った。

逃げるなら今だった。秘密を抱いたまま、影のない町へ行けばいい。

ナシュカは箱の蓋を開けた。

「三年前、あなたに届くはずだった手紙を、私が止めた」

市場の音が、一斉に消えた。