恋人はシナモンの匂い
厨川ひさめは、生まれつき匂いが分からなかった。恋愛仲介AIが「運命の相手には幼い日の安心の香りを感じます」と宣伝しても、彼女の世界は無臭のままだった。友人たちは初対面の相手から母のカレーや夏祭りの綿菓子を嗅ぎ、次々と恋に落ちた。
ひさめにも最高相性の男性が紹介された。画面には「シナモンの香りを送信中」と表示されたが、彼女には何も来ない。男性は自信満々に言った。
「僕から、懐かしい匂いがするでしょう」
「しません」
相手は気分を害し、十分で帰った。仲介会社は嗅覚修復手術を勧めた。匂いを感じられないのは、幸福への障害だという。
待合室で、ひさめは古い端末を使う青年と知り合った。彼の機種は香り送信に対応しておらず、誰からも低評価を付けられていた。二人は仕方なく近くの喫茶店へ入り、匂いの代わりに質問をした。嫌いな食べ物、借金、親との関係、休日の過ごし方。どれも運命らしくなかったが、青年はひさめが水をこぼすと黙って布巾を取りに行った。
二人のデートは、相性のよい恋人らしくなかった。映画の好みは合わず、青年は歩くのが速く、ひさめは待たされると露骨に機嫌を悪くした。けれど喧嘩のあと、AIが勧める謝罪文を使わず、自分の言葉で話した。友人たちの中には、香りが薄れた途端に恋人を変える者もいた。ひさめは幸福そうな匂いを羨ましく思う一方、嫌いなところまで知って残る関係を、少し誇らしく思った。
三か月後、仲介AIは二人の交際を「感覚的結合が確認できない」と警告した。友人は、香りのない恋は長続きしないと言った。
ある日、青年の端末が更新され、ひさめにシナモンの信号を送った。彼女にはやはり分からない。けれど青年は慌てて送信を切った。
「これで好きになられたら、困る」
「もう遅いかも」
ひさめは笑った。運命の匂いは一度も嗅げなかった。その代わり、彼が布巾を取りに立つ速さや、嘘をつくと左眉が上がる癖を知っていた。
無臭の恋は、宣伝より手間がかかった。だから二人のものだった。