手付金を流す蛇口
不動産会社の待合室で、水道工事業者の井堰澄人は担当者を待っていた。隣の商談席から、若い夫婦の深刻な声が聞こえる。
「もう手付を流すしかありません」
仲介担当者が答えた。
「流したら戻りませんよ」
澄人は反射的に立ち上がった。
「どの蛇口です? 戻らないなら詰まりか逆流の可能性があります」
三人が彼を見た。
夫が言う。
「蛇口ではなく、マンションの契約です」
「建物全体の配管ですか。手付金を流す実験は危険ですよ」
担当者は説明を続けた。
「契約を解除するため、支払った手付金を放棄するという話です」
「現金を排水口へ?」
「捨てるようなものですが、実際には流しません」
澄人には理解しがたかった。
妻が尋ねた。
「売主側から解除する場合は倍返しなんですよね」
澄人はさらに身を乗り出した。
「倍の水量が逆流する? それは本管の圧力異常です」
担当者がこめかみを押さえた。
「手付倍返しは、売主が受け取った額の倍を返して契約を解除することです」
「流したものを倍にして返す装置が?」
澄人は排水管用のワイヤーを取り出した。
「今なら流す前に受け止められます。札束は水に弱いので防水袋を」
担当者は椅子ごと一歩下がった。
「装置から離れてください」
商談は完全に止まった。
澄人は工具箱から内視鏡カメラを出し、給湯室の流し台を調べ始めた。
「少なくともこの排水管に札束はありません」
妻は澄人へ尋ねた。
「本当に現金を流したら、回収できますか」
「紙幣の状態次第ですが、まず元栓を閉めます」
夫婦は顔を見合わせ、ついに笑い出した。張り詰めていた空気が少し緩んだ。
妻が言った。
「私たち、転勤が決まって焦っていました。でも手付を失う前に、売主へ相談してみます」
担当者もうなずいた。
「条件変更が可能か確認しましょう」
そこへ澄人を呼んだ別の社員が来た。
「井堰さん、三〇二号室の水が流れない件です」
澄人は胸を張った。
「ようやく本業ですね。手付金は流しません」
仲介担当者が答えた。
「それだけは、こちらも助かります」