時を失う老人と砂留め錠
薬屋《遅い時計》へ来た老人は、一時間前より確実に老いていた。
名はボロミール。朝には黒かった髪が、昼前には半分白くなっている。
「時術師の実験に巻き込まれた。私の一時間が、体には一日として流れる」
店主エレナが脈を取る間にも、手の皺が一本増えた。
「治せますか」
「完全には。原因の魔法陣を壊す必要があります」
「それは明日になる。明日の朝まで、もたせたい」
娘が今夜、子を産む。手紙には、会えなかった十年を責める言葉ではなく、病室の番号だけが書かれていた。
ボロミールは十年疎遠だったが、昨日ようやく「来てほしい」と手紙を受け取った。病院まで半日。今のままなら、着く頃には立てなくなる。
「孫に会うまででいい。立ったまま、自分の名を言いたい」
エレナは砂色の錠剤を一粒出した。
「砂留め錠。日の出まで、体の時間を外の時計へ縛ります」
「つまり、老化が止まる?」
「普通の速さになります。それ以上でも以下でもありません」
「十分だ」
だが老人は錠剤へ手を伸ばさない。
「代金が高いのだろう」
財布には銅貨が数枚しかない。時術師へ全財産を払っていた。
エレナは値札を裏返した。
「効いたら、明日払ってください」
「明日、生きていなければ?」
「薬師が客を見誤った損です」
ボロミールは錠剤を飲んだ。
店の時計が一分進む。
彼の呼吸も、一分ぶんだけ進んだ。白髪の増加が止まり、脈が外の時と同じ間隔を刻み始める。
老人は鏡の前で背を伸ばした。
「まだ、祖父に見えるか」
「立派に」
「父親には?」
「それは無理があります」
「正直な店だ」
彼は笑い、病院へ向かった。
翌日の昼、扉の鈴がゆっくり鳴った。
ボロミールが戻ってくる。昨日より一日ぶんだけ老いていたが、腕には小さな編み靴を一足抱えている。
「間に合った。孫は私の指を握った」
銅貨ではなく、娘から借りた銀貨を規定どおり置いた。
「魔法陣も壊れた。もう薬はいらん。ただ、同じ事故に遭った者のために一瓶注文したい」
「一粒ずつしか作れません」
「なら十粒。私が代金を預ける」
老人が編み靴を大切に懐へしまい、歩いて帰る。
エレナが注文帳へ初めて十の数字を書いた、その直後。
店の時計と同時に、扉の鈴が一度鳴った。