暴落した一年
海老沢穣は毎朝、寿命相場を見てから家を出る。二十代後半の一年は六百万円前後。コーヒー代なら四分、急行料金なら十三分。安い日を選んで少し売るのが、彼なりの節約だった。
恋人の夕莉に緊急手術が必要になった夜、病院は一千二百万円の前払いを求めた。
穣は売却画面を開く。
《現在価格:一年六百四十万円》
《必要売却量:一年十か月》
残り寿命は四十二年。二年弱なら払える。
「売る」
夕莉は首を振った。
「現金のローンにして」
「審査に三日かかる。手術は朝だ」
寿命市場では、注文時ではなく実際に成立した時点の価格で売却量を確定する。それが唯一の規則だった。夜間注文は翌朝九時にまとめて処理される。
穣は上限を二年に設定しようとした。
《医療緊急注文に上限は設定できません》
不足が出れば手術枠を失うため、必要金額へ届くまで自動で売る仕組みだった。
確認を押す。
《一千二百万円の確保を受け付けました》
朝八時五十分、夕莉は手術室へ運ばれた。
九時、市場が開く。
政府が備蓄していた寿命百億年を放出するという速報が流れた。相場が一秒ごとに落ちる。
一年六百万円。
二百万円。
八十万円。
穣は取消しを押す。
《成立処理中です》
価格は五十万円で止まった。
通知が届く。
《売却成立》
《売却寿命:二十四年》
《受取額:一千二百万円》
四十二年あった残りが、十八年になる。
「話が違う」
《注文額は一致しています》
手術費は正確に確保された。夕莉の手術も成功した。
病室で目覚めた彼女へ、穣は二十四年のことを言えなかった。
「何年売ったの」
「二年」
嘘をつくと、共同家計アプリが訂正通知を出した。
《寿命資産の重大な変動を検出》
《同居予定者へ共有します》
夕莉の画面に、二十四年が表示される。
彼女は長い間黙った。
「私の手術、キャンセルできたのに」
「朝まで待てなかった」
「あなたの二十四年は待てた?」
答えられない。
その日の終値は、一年七百万円まで戻った。放出は誤報だったと政府が訂正した。
穣が売った二十四年は、開始直後の暴落時に一社が全量購入していた。
購入者は、手術を行った病院の運営会社だった。
夕莉の治療費と、穣の寿命の買値は、同じ企業の決算書で相殺されていた。