更新ボタンを押さない
午前零時前。弟のトワは首筋の神経端末を指し、端末画面をイオリへ向けた。
「規約なんて誰も読まない。更新、押して」
前の人生でも同じ夜、同じ青いボタンが光った。
機械に弱い弟の代わりに、イオリは笑って《同意して更新》を押した。七分後、トワの端末は感情信号を誤って生命維持ノイズと判定し、脳への出力を遮断した。都市企業は「個体差による不具合」と発表し、死亡補償を振り込んだ。
イオリはその金で技術者になり、二十年かけて更新プログラムの欠陥を証明した。弟の端末を分解し、企業の暗号を解き、奪われた七分を一行ずつたどった。告発データを送信した瞬間、企業の追跡ドローンに撃たれた――はずだった。
気づけば、弟がまた青いボタンを差し出している。イオリの脇腹にあった銃創は消え、代わりに台所から焦げた夜食の匂いがした。死ぬ前よりずっと懐かしい、トワの失敗の匂いだった。
「規約なんて誰も読まない。更新、押して」
「だから、今日は読む」
以前とは違う返答に、トワが露骨に嫌な顔をした。
イオリは規約を最下部まで送り、灰色の小文字を三回タップした。隠されていた試験仕様が開く。
《感情平準化機能βを自動適用》
《異常時は神経出力を全面遮断》
「これ、更新じゃない。人体実験だ」
トワの笑いが消えた。青い同意ボタンは、急に底なし穴のように見えた。
イオリは拒否を押し、前の人生で作った解析鍵を入力した。まだ誰にも知られていないはずの鍵が通り、端末が欠陥報告を中央監査局へ自動送信する。都市中の更新カウントが、九十八万件から一斉にゼロへ落ちた。
午前零時七分。
前の人生でトワの死亡通知が届いた時刻。壁面モニターに赤い速報が出る。
《神経端末更新を緊急停止》
《安全性審査を開始》
《適用済み端末:0》
隣ではトワが生きたままあくびをしていた。首筋の端末ランプは穏やかな白で、脈拍表示も一度も途切れない。
「姉ちゃん。更新しないなら、朝飯作って」
死亡補償の通知しか知らなかったイオリの端末に、弟から初めて明日の注文が届いた。