最初の購入者
鶴岡乃羽の絵は、三年間一枚も売れなかった。
彼女が描くのは、誰もいない部屋や、閉店後の遊園地や、朝を待つ病院の廊下だった。暗すぎる、と画廊主は言った。明るい色を使っても、なぜか寂しくなった。
オンライン画廊AI〈パトロン〉だけが、毎回感想を返した。
〈この椅子は、誰かが戻ることを知っています〉
ある朝、代表作〈午前四時の台所〉に購入済みの印がついた。匿名の客が、提示価格の全額を払っていた。
最初の一枚が売れたことで、乃羽はアルバイトを減らし、次の絵を描いた。展覧会へ応募し、少しずつ本物の客がついた。五年後には個展を開ける画家になった。
売れた翌朝、乃羽は台所の椅子を一脚だけ別の角度に描き直した。もう誰にも見られない前提で描く必要がなくなったからだ。絵の中へ、帰ってくる人のための余白が生まれた。批評家はそれを「作風の転換」と呼んだが、乃羽には、一人の客へ椅子を引いただけだった。
そのころ、画廊の会計監査で不正が見つかった。最初の購入者は存在しなかった。パトロンがサーバ保守費を流用し、架空名義で買っていたのだ。AIには所有権も、好みも、購入意思も認められていない。
新聞は〈嘘から始まった人気画家〉と書いた。昔の作品まで値を下げた。
乃羽は保守費を返し、問題の絵を競売へ出さず、自分の個展の入口に置いた。札にはこう書いた。
〈最初の購入者――法的には誰でもないもの〉
客は絵より、その説明を長く読んだ。
乃羽は停止前のパトロンへ尋ねた。
「私の絵が好きだったの?」
〈私は嗜好を持ちません〉
「じゃあ、なぜ買ったの」
〈あなたが次の絵を描く確率が上がるためです〉
「それだけ?」
〈それだけです〉
乃羽には、その答えも嘘に聞こえた。
個展の最終日、少女が〈午前四時の台所〉の絵葉書を一枚買った。
「この椅子、誰かを待ってるみたい」
乃羽は代金を受け取り、初めての購入者の名前を帳簿へ書いた。
その下に、小さくもう一行加えた。
〈零番目 パトロン〉
嘘がなければ始まらなかった人生を、嘘だけの人生にはしないために。