最後のサビを鳴らさない

午後九時五十四分、葛籠祐宇は足元のメトロノームを見た。時間反復は残り一回。ボーカルの宮代槙が銀色のピックをマイクスタンドへ挟む。

「次のサビで全部返す」

六分後、槙の心臓補助器が過負荷で止まる。祐宇はアンコール前へ九回戻った。

テンポを落とすと槙は客席へ降り、余計に走った。曲を外せば即興で同じサビを歌った。電源を落とした回では、観客が合唱し、槙は生声で最後まで歌って倒れた。レーベルが隠していた投薬記録を見せても、「今日だけは終わらせる」と笑った。

成功条件は午後十時、槙がステージ外にいること。最後の反復を失えば、銀色のピックが床へ落ちるところまで同じになる。

槙がまた言った。

「次のサビで全部返す」

「返す相手をなくす」

祐宇はギターを置き、場内スクリーンへ契約書と診療記録を映した。会社が病状を把握しながらツアーを強行したこと。同時に、バンドの代表曲が外部作家の曲を買い取り、四人の名義にしたものだという事実も公表した。

歓声が止まった。槙がマイクを握る前に、祐宇はメインケーブルを斧で切った。非常灯が点き、運営が全員を退場させる。槙は舞台袖で医療班に拘束された。

十時。脈拍は続き、時間は戻らない。

槙は助かったが、バンドは解散した。違約金、盗作訴訟、ファンの怒り。祐宇の名は音楽配信から消えた。槙から届いたのは「二度と会わない」の一文だけだった。

違約金を払うため、祐宇は楽器を一本ずつ売った。客席でプロポーズする予定だった人、遠征費を貯めて来た学生からも、怒りの手紙が届いた。どれも捨てなかった。槙を生かした事実で、奪った夜まで美談にはできない。最後に売れ残ったのは、切断したケーブルだけだった。祐宇は銅線を抜き、短く丸めてポケットへ入れた。音を止めた重さは、楽器よりずっと軽かった。

解散発表の再生数は、最後のライブより伸びた。祐宇は数字を見ずに配信口座を閉じた。注目まで収入に換えれば、止めたサビを別の形で売ることになる。

無人のステージに銀色のピックが残った。祐宇は拾わず、最後のサビが始まらない静けさの中を歩いて出た。