最後の牛蒡

坂東千景は、恋人が置いていったけんちん汁を、冷蔵庫の前で見つめていた。

蓋に〈祖母ちゃんのレシピ。温めるだけ〉と書いた付箋がある。千景が食べられない日を、恋人は責めない。ただ「今日はどうだった」と聞かれるたび、千景は大丈夫と答えてきた。

一度よくなったと思ったのに、最近また、食卓へ座ることが怖い。仕事の配置が変わり、昼休みを誰かと過ごす日が増えたころから、食べられない自分を見られる不安が戻った。恋人は原因を探さず、食卓にいる時間だけ短くしてくれた。心配させたくなくて、昼食の写真を撮り、食べる前の皿を送っていた。完食したように見せるため、残りは別の容器へ移した。恋人が喜ぶたび、次はもっと上手に隠さなければならなくなった。心配を減らすはずの嘘が、二人で食べる場所を狭くしていた。

今夜、恋人は夜勤だ。見ている人はいない。

鍋を温めると、胡麻油の香りを含んだ湯気が上がった。器を両手で持つと、熱が指へゆっくり移る。大根はやわらかく、牛蒡だけが噛むたび細い抵抗を返した。

祖母のけんちん汁は、根菜の大きさが揃っていない。幼い千景が切るのを手伝った名残で、今も恋人は太いものと薄いものを混ぜる。レシピ帳の余白には、祖母の字で〈食べられる形から〉とある。

千景は汁だけを三口飲んだ。

次に、いちばん薄い大根を食べた。豆腐、里芋。順番を決め、ひとつずつ減らす。誰にも褒められないよう、写真は撮らなかった。

残ったのは、太い牛蒡が一切れだった。

全部食べれば、恋人を安心させられる。けれど安心させるために無理をして、明日また隠すのは違う気がした。

千景は牛蒡を半分だけ噛んだ。残りを器へ戻し、蓋をする。

空に見える角度ではなく、残った半分がよく見える角度から写真を撮った。恋人との会話を開く。

〈今日はここまで食べた。最後の牛蒡は残した。大丈夫って言ってたけど、大丈夫じゃない日が増えてる〉

送信すると、器を洗わず冷蔵庫へ戻した。

食べ残しを隠さないことが、今夜の一口より難しかった。

祖母のレシピどおり、千景は食べられる形から始めた。残した半分もまた、明日一人で片づける罰ではなく、誰かと話すための続きを持っていた。