月下美人が返す夜
父が育てていた月下美人を、母と娘は捨てられずにいた。
父の死後も年に一度、夜だけ白い花を咲かせる。
娘は町を出て映像の仕事をしたかったが、母は家業を手伝ってほしいと言い、二人は長く口をきいていなかった。
園芸店でもらった翻訳霧を蕾へ吹くと、花が開いている間だけ、これまで水をやった人の言葉を一人一文ずつ、古い順に返すという。
夜九時、花が開いた。
幼い娘の声。
「大きくなったら、遠くへ行く」
父の笑い声が続く。
「行って、帰りたいとき帰ればいい」
母の声。
「帰らなくなったら、どうするの」
娘は母を見た。
母も、花だけを見ている。
次の言葉は、数年前の娘だった。
「お母さんみたいに、この町だけで終わりたくない」
忘れたかった一言だった。
母の肩がわずかに動いた。
花は、言った人が後悔した言葉も区別しない。
父の声。
「終わる場所じゃなくて、始める場所にすればいい」
その意味を父に聞く前に、病気になった。
最後に、母の声が返った。
「行かせたくない。私も行きたかったから」
娘は初めて知った。
母は若い頃、料理の学校へ進みたかった。
祖父母の店を継ぐため諦め、父と一緒に働いた。
自分が残った人生を否定されたようで、娘の希望を聞けなかったのだという。
「じゃあ、私にも諦めさせるの」
娘が言うと、母は首を振った。
「諦めさせたくない。でも、羨ましい」
きれいではない本音だった。
娘も、
「戻ってきてと言われると苦しい。でも、帰る場所がなくなるのも怖い」
と話した。
二人は夜明けまで結論を出さなかった。
家業を誰がどうするか。
娘がどこへ住むか。
花は答えをくれない。
ただ、言えなかった言葉を同じ夜へ並べただけだった。
娘は予定どおり町を出た。
母は家業を小さくし、週に二日休むようにした。
娘は帰省のたび、母の料理を撮影した。
継ぐためではなく、母自身の仕事として残すためだった。
翌年、月下美人は蕾を付けなかった。
翻訳霧ももうない。
母は鉢へ水をやりながら、
「今年は休むんだって」
と言った。
娘は画面越しに、
「休んでも、枯れたわけじゃないね」
と返した。
遠くへ伸びる枝と、同じ鉢に残る根は、どちらかを裏切るものではなかった。