木の手が触れない留守番電話
水城依都は、父の最後の留守番電話を毎晩聞いていた。
『冷蔵庫の梨、早く食べろよ』
それだけだ。父は翌朝、出勤途中に倒れた。声も言葉も覚えているのに、再生するたび他人の伝言のように聞こえる。悲しめない自分が薄情に思えた。
樫木夕星は、左手が木でできた時計職人だった。節の残る指で工具を持たず、作業は右手だけでする。木の手はいつも机の端へ置かれている。
「触れないほうが動く」
依都のスマートフォンを見て、夕星は言った。
「壊れているのは音声じゃありません」
「知ってます。私です」
「自己診断は修理を遅らせる」
夕星は端末の時計機能から、録音された時刻の周辺を開いた。午後六時四十一分。父は電話を切ったあと、台所へ戻り、梨を一つ手に取る。皮をむこうとしてやめ、冷蔵庫へ戻す。
その場面に、依都はいない。
「どうして父の記憶が?」
「電話の時計は、発信者側の時間も少し預かる」
父はもう一度端末を手にし、録音し直そうとする。『この前は言いすぎた。悪かった』。そこまで吹き込み、全部消す。代わりに梨のことだけを残した。
依都は息を詰めた。最後に会った日、転職をめぐって喧嘩をした。父の謝罪を期待していたのに、届いたのは果物の催促だった。
「謝ってたんだ」
「言わなかった言葉は、言ったことにはできません」
夕星は慰めず、消された録音も復元しなかった。ただ、父が梨を冷やし直したときの温度を、伝言の冒頭へ縫い込んだ。
再生すると、声の前に、冷蔵庫を開けた冷気と、父の大きな掌が果物を持つ感触が戻る。依都の喉がようやく震えた。
「これで、泣けます」
「泣くために直したんじゃない。食べるためです」
夕星は奥から、少し傷んだ梨を一つ持ってきた。依都が昨夜、店の前へ置き忘れた袋の中身だった。
木の手を伸ばしかけ、途中で止める。代わりに皿と果物ナイフを依都の前へ置いた。
「触れないほうが動く」
その言葉は、遠ざける意味ではなかった。代わりに触れず、持ち主自身の手が動く余白を残すことだった。
依都は梨を四つに切った。一切れは自分へ、もう一切れは空いた向かいの席へ置く。伝言を再生しなくても、甘い汁の匂いで父の声が聞こえた。