棺の中の相談
死んだ女は、化粧を直してほしいと棺の中から頼んだ。
夜の処置室で、私は白布をめくった。女は目を閉じたまま言う。
『口紅が濃すぎるの。娘は薄い色が好きだから』
「十分きれいですよ」
『鏡を見せて』
壁の鏡には布が掛けられていた。葬儀社では、死者が自分の姿を見て戻れなくなるという迷信がある。私は笑って布を外した。ところが布に触れた感触はなく、指は冷たい空気をかき回しただけだった。処置台の器具にも、私の姿だけ影が落ちない。
鏡に映ったのは、棺の女だけだった。女に名を訊かれたが、私はどうしても思い出せない。制服の胸にも名札はなく、代わりに白い布の切れ端が貼りついていた。
照明が暗いせいだと思い、私は化粧箱を開いた。筆を握る指には番号札が巻かれている。新人用の管理札だろう。だが口紅を塗ろうとすると、筆先は女の頬をすり抜けた。
『あなた、下手ね』
「手が冷えているんです」
『私より?』
女は小さく笑った。
彼女は明日の午前、娘と最後の対面をする。生前は十年も会っていなかったらしい。女は何度も、娘が来るかどうか訊いた。
「予約表には一名とあります」
『怒っているでしょうね』
「会えば、きっと伝わります」
『あなたは誰か来るの?』
質問の意味がわからず、私は話を逸らした。処置室の隅にはもう一つ棺があり、蓋が閉じている。そこから、ときどき自分と同じ香水の匂いがした。
女は髪型、頬紅、襟元を次々に気にした。私は助言するだけで、どうしても手を触れられない。やがて廊下に足音が近づき、若い納棺師と助手が入ってきた。
納棺師は女の棺を覗き、口紅を薄い色へ直した。
「隣は?」
助手が閉じた棺を示す。
「昨夜の交通事故の男性です。家族の到着待ち」
「また話し声がしたって?」
「はい。女性のご遺体に、ずっと化粧の助言を」
二人は隅の棺を開けた。中には番号札を手首につけた私が横たわっていた。
隣から女が囁く。
『よかった。あなたのご家族も来るわ。今度は、あなたの化粧を相談しましょう』