橋は指先から
雨の日の放課後、理科室の窓が白く曇った。
掃除当番の私が雑巾を絞っていると、隣の班の子が指で一本の線を引いた。
「海岸線」
雨粒が線へ集まり、窓の海だけが少し深く見えた。
山しか見えない町の窓に、細長い湾ができた。
彼女は卒業したら海の近くへ行くと言っていた。進学先のパンフレットには、校舎から青い水平線が見える写真が載っている。
「ここが駅」
「海の上じゃん」
「埋め立て」
「勝手に町をつくるな」
私も指を伸ばし、湾の内側へ橋を描いた。彼女は灯台を足し、私は商店街。試験管を洗う水音の横で、窓の上に小さな海辺の町が広がった。
「そっちはどこ行くの」
訊かれ、私は雑巾をたたんだ。
進路希望には地元の学校を書いた。家から近いから。知っている人がいるから。遠くへ行く理由がないから。
「ここにいる」
「ずっと?」
「たぶん」
「じゃあ、この町に遊びに来て」
「窓にしかない」
「私が似たところ探す」
彼女は湾の端に、小さな家を二つ描いた。
一つは海のすぐそば。もう一つは橋の向こう。
「離れてる」
「津波対策」
「現実的」
「橋で会える」
指の跡から水滴が落ち、家の屋根が崩れた。
私たちは笑った。
先生が戻ってきて、「窓も拭いておいて」と言った。
雑巾を当てる。
海岸線が消える。駅、灯台、橋。最後に二つの家だけが残った。
彼女が自分の袖で一つを消した。
「どっち消したの」
「私の」
「何で」
「まだどこに住むかわからないから」
「海へ行くんじゃないの」
「海の近く、ってだけ」
私ももう一つの家を消した。
白かった窓は透明になり、いつもの校庭と雨の山が見えた。
春、彼女は本当に海辺の町へ行った。
最初に届いた写真には、窓へ指で描いたのと似た橋が写っていた。裏に『家はまだない』と書かれていた。
私は返事に、この町の放課後の写真を送った。
雨上がりの校舎の窓が一枚だけ曇り、そこへ誰かが指で細い線を引いていた。
海には見えなかった。
けれど二人の間には、まだ消していない橋のように思えた。