正しい記憶

母は、起きたことを起きなかったことにする人だった。

姉の碧生が階段から落ちた夜も、「自分で滑った」と言い張った。退院した姉は記憶が曖昧で、母の言葉を信じかけた。だから逃げてから、私は記憶を録音することにした。

毎晩、同じ質問をする。

「階段の上に誰がいた?」

「お母さん」

「背中を押したのは?」

「お母さん」

碧生が迷うと、私は最初からやり直した。沈黙や言い間違いは母の声が残っている証拠なので、編集で消した。姉が「砂――」と言いかけると、私は机を二度叩いて録音を止めた。やり直しの合図は、事故の直前に鳴った音と同じ二回だった。完成した音声だけを姉にも聞かせた。

二つだけ、碧生は不思議がった。録音の日付が事故の半年後から始まっていること。質問する私の声が、答えより先に「お母さん」とかすかに重なること。波形には、切ったはずの短い音が棘のように残っていた。

「誘導してない?」

「正しい記憶を守ってるの」

私はそう答えた。姉が真実を失えば、母の勝ちになる。碧生は母との口論だけでなく、私と争った記憶まで曖昧だった。忘れた部分を正しい形で埋めるのも、妹の役目だと思った。

ある日、碧生が支援員へ音声を渡した。証拠にしたいという。私は慌ててクラウドから元データを削除し、編集済みのファイルだけ共有した。

だが支援員は、事故直後に病院で録られた別の音声を持っていた。母が提出したものだった。母を信じる材料になるものは偽物だと決めていたのに、録音には救急車のサイレンと、私が机を叩くのと同じ二度の衝撃音が入っていた。

掠れた碧生の声が入っていた。

〈砂羽が怒って、後ろから押した〉

私は、母に言わされたのだと説明した。碧生は私を見たまま、何度も首を振った。

あの夜、姉だけが逃げようとした。私は置いていかれると思い、階段の上で腕をつかんだ。押すつもりはなかった。母が救急車を呼んだせいで、二人で逃げる計画が遅れただけだ。

碧生はその日、別の保護先へ移った。

私は編集アプリを開き、病院の音声から自分の名前を消そうとした。

画面の隅には〈削除した元ファイルは残り二十九日間、本人が復元できます〉と表示されていた。