歩を置く音

真鍋冬佳は、昇進の打診メールを閉じた。会議で意見をまとめ、後輩の相談に乗る仕事はすでにしている。それでも肩書きを受け取ると、今までの自分を演じられなくなる気がした。机の引き出しから木の駒を出した。「歩」の墨が薄く、裏の「と」だけが濃い。高校の将棋部で最後に指した対局の駒だった。

相手は入部したばかりの一年生だった。窓際の盤には春の斜光が差し、駒を動かすたび、磨かれた木の表面が一瞬だけ光った。部室の隅では、卒業生の上履きを入れた袋が並んでいた。引退する三年生が順番に後輩と一局指し、盤を譲る。それが最後の部活動だった。

冬佳は序盤から優勢だった。けれど、敵陣へ入った歩を動かしたところで手が止まった。

「成りますか」

後輩が尋ねた。

歩は裏返せば「と金」になる。動ける方向が増え、別の駒のように強くなる。冬佳は三年間、目立たない一手を積み重ねるのが好きだった。部長にもならず、大会の代表にも選ばれず、それでも盤の前では落ち着けた。

ここで裏返したら、自分の歩ではなくなる気がした。

「成らない」

そう答えかけ、窓の外を見た。靴箱の前で、卒業生たちが写真を撮っていた。制服でいられる時間は、もう数時間しかない。

冬佳は駒をつまみ、裏返した。

「成ります」

乾いた音が盤に響いた。

ところが三手後、そのと金は後輩の銀に取られた。駒台へ移されたとき、また表向きの歩へ戻った。強くなった時間は短く、勝負にも負けた。

冬佳は悔しいより先に笑った。変わったら戻れないと思っていたのに、駒は何度でも表と裏を行き来する。それでも、敵陣まで進んだ一手は盤上から消えなかった。

片づけのとき、欠けた予備の歩を一枚もらった。裏の「と」を、自分で墨直しした。

今、会社は冬佳に小さなチームを任せようとしている。責任が増え、失敗すれば、自分らしくない選択だったと後悔するかもしれない。断れば、これまでと同じ場所にはいられる。

冬佳は駒を裏返し、濃い「と」を上にした。返信欄へ、引き受けます、と打つ。

送信ボタンを押した音は、盤へ歩を置いた音によく似ていた。