母の知らない赤子

命名盆の中で、赤子は人形のように静かだった。

キュレアが産んだ娘ティモラには、息がなく、声がなく、瞳の色がなく、手足に力がない。死んではいない。出産の夜、乳母影と呼ばれる悪魔が「母になる代金」として、赤子の人らしい部分を一つずつ持ち去ったのだ。

悪魔は盆の水面に浮かび、取引を告げた。

――一つ返すたび、おまえから母としての記憶を一つもらう。すべて返せば、子は完全になる。おまえがその子を知っている保証はない。

キュレアは赤子の胸へ耳を当てた。

「息を返して」

水面から白い糸が伸び、ティモラの口へ入る。小さな肺が初めて膨らんだ。

代わりに、腹の中で最初に動いた日の記憶が消えた。驚いて笑ったことも、夫へ手を当てさせたこともなくなる。

「声を返して」

赤子が細く泣く。キュレアは陣痛の夜を忘れた。痛みだけでなく、手を握った人、夜明けの色、産み切った瞬間の安堵まで消える。

「目を返して」

灰色だった瞳に深い琥珀色が宿る。

代価に、初めて娘の顔を見た記憶が抜けた。キュレアは腕の中の赤子を見下ろし、いつから抱いていたのか分からなくなる。

悪魔が笑う。

――残るは手足の力と、真名だ。ここで止めても、この子は生きる。歩けず、名を呼ばれないだけだ。

キュレアは赤子の指を握った。弱い指は握り返さない。

「力を返して」

ティモラの腕と脚が動き、母の胸を蹴った。

キュレアの身体から母乳の匂いが消えた。乳房の張りも、臍の下の出産痕もなくなる。鏡に映れば、一度も子を宿したことのない身体に見えるだろう。

最後に真名。

名を返せば、キュレアはその名を選んだ記憶を失うだけではない。悪魔は、母が子を「自分の子」と見分ける結び目を求めている。

赤子は名のない口で泣いた。

キュレアは盆へ額をつけた。

「ティモラを返して」

水が黒く染まり、悪魔が消える。赤子の胸に金色の文字が一瞬浮かび、真名が戻った。

部屋の外で待っていた家族が駆け込む。

「生きている!」

誰かがキュレアの腕から娘を受け取った。赤子は元気に泣き、手足を振り、琥珀の目で光を追う。

キュレアは安堵する皆を眺めた。

胸は静かだった。泣いている赤子に近づきたいとも、抱きたいとも思わない。自分の衣には血も乳もなく、腹には何の痕もない。

「かわいいでしょう」と家族が言った。「あなたのティモラよ」

キュレアは礼儀正しく微笑んだ。

「どなたのお子さんですか」

その問いに赤子だけが泣き止み、知らない女の方へ両手を伸ばした。