波の止む隙

鴇田伊吹が父の船を売る前夜、港へ行くと、巽が防波堤に座っていた。

父は一年前、沖で亡くなった。

遺体は見つからず、空の棺だけを焼いた。

「船、売るぞ」

伊吹が言っても、父は返事をしない。

波が砕け、白い音が続いている。

やがて二つの波のあいだに、ほんの短い静けさが生まれた。

「好きにしろ」

父の声がした。

次の波が来ると、また口だけが動いた。

父は、波の止む隙にしか声を出せないらしい。

伊吹は防波堤へ座った。

会話はひどく途切れた。

「借金が」

ざあん。

「残ってる」

ざあん。

「漁師は」

ざあん。

「継がない」

静けさを待つたび、言葉を短くしなければならない。

父は生前から無口だったが、今夜は海まで父に似ていた。

伊吹は町を出て、ホテルの料理人になった。

魚をさばく腕だけは父に教わった。

帰省するたび「船に乗れ」と言われ、「魚は陸でも切れる」と断った。

最後の電話でも喧嘩した。

父は台風の前なのに漁へ出ると言い、伊吹は「勝手に死ね」と切った。

翌朝、船だけが流されて見つかった。

「なぜ」

ざあん。

「出た」

ざあん。

長い波が続く。

父の答えを待つあいだ、伊吹は拳を握った。

ようやく海が息を引いた。

「怖かった」

父はそれだけ言った。

伊吹は顔を上げた。

父が怖いと言うのを、初めて聞いた。

「何が」

ざあん。

「港が」

ざあん。

「なくなる」

漁師は減り、加工場も閉じた。

父は最後の仕事を断れば、もう誰も船を頼まなくなると思ったらしい。

町を守るつもりだったのか、意地だったのか、その続きを聞く前に波が来た。

「俺も」

伊吹は静けさを待った。

「怖かった」

父がこちらを見る。

「継いで」

ざあん。

「失敗して」

ざあん。

「あんたに」

ざあん。

「似るのが」

父は笑ったようだった。

夜明けが近づく。

波の隙間は少しずつ短くなる。

伊吹は売買契約書を取り出した。

「船は」

ざあん。

「売る」

ざあん。

「でも」

ざあん。

「店を出す」

港の空き倉庫を借り、魚料理の店を始めるつもりだった。

決めたのは今だった。

「名前」

父が言った。

伊吹は考えた。

父の名をつける気はなかった。

美談にしてしまえば、最後の喧嘩まで嘘になる。

「波間」

父は一度うなずいた。

大きな波が防波堤を叩いた。

しぶきを拭ったとき、父はいなかった。

店を開いてから、伊吹は客に料理の説明をよくするようになった。

黙っていても伝わる、とは思わなくなった。

ただ、朝の仕込みで波音が途切れるときだけ、包丁を止める。

父の短い返事が、まだ残っている気がした。