波紋を数えるな

不破瑛士は水質調査会社で、鳴無山の滝壺から検体を採ることになった。そこは水神の禁足地とされ、村の採水記録には赤字で一文ある。

《滝壺へ石を投げたら、波紋を数えてはいけない》

瑛士は「投石禁止」を遠回しにしたものだと思った。採水記録には水深が毎年一人分ずつ浅くなるとあり、最後の測定欄だけ《底は端末の光で満ちている》と記されていた。

現場音声

09:31 水温八・二度

09:36 採水器、底へ届かず

09:38 深度確認のため小石を投入

石を投げたこと自体は禁止されていない。だが水面に広がる輪が消えず、次々に増えた。瑛士は無意識に「一、二、三」と数え始めた。数えたのはその一度だけだった。八つ目を口にした瞬間、すべての輪が内側へ閉じた。水面は鏡のように静まり、瑛士ではなく八人の男が岸を覗き込んでいる姿を映した。七人は古い作業着で、最後の一人だけが瑛士の会社の制服を着ていた。

滝壺の中央から、スマートフォンの着信音がした。

瑛士の端末は胸ポケットにある。水中の音は同じ着信音を八回繰り返し、そのたびに深い場所から画面の光が近づいた。瑛士は検体を捨てて逃げた。背後で水から上がる足音が八つ重なり、一歩ごとに彼の着信音が短く鳴った。登山口まで、数は一つも減らなかった。

会社で録音を確認すると、彼が数える声は入っていない。波形だけが八重の円になっていた。代わりに八人の声が順番に「ここ」と答えていた。最後の声だけが瑛士だった。

その夜、メールにセキュリティ警告が届いた。

《新しい端末からアカウントにログインしました》

端末名:水面の下

場所:鳴無山

利用者:8人目

パスワードを変更しても、ログインは続いた。二段階認証のコードは毎回、水滴のついた画面に先に入力されている。

瑛士はアカウントを削除した。するとスマートフォン自体が再起動し、初期設定画面になった。

《この端末は、すでに八人の利用者によって使用されています》

《あなたは何人目ですか》

選択肢は一から八まで。瑛士が触れずにいると、画面の壁紙が黒い水面へ変わった。円い波紋が一つずつ広がる。

八つ目が開いたところで、前面カメラに濡れた自分の顔が映った。

《8人目がログインしました》