洗わないマグカップ

小杉穂乃莉は、誰かが使った食器を見つけるとすぐ洗った。職場でも共有机の紙を整え、会議後のカップを回収する。「気が利く」と言われるたび、やらない自分を想像できなくなった。同僚たちは穂乃莉が片づけることを前提に、会議室へカップを残した。頼まれたわけではないから断ることもできない。夕方には肩が固まり、自分の仕事だけ遅れても、散らかった机を通り過ぎるほうが悪いことに思えた。親切と役割の境目は、褒め言葉の下で見えなくなっていた。残業している人がいれば自分も帰れず、誰かが困った顔をすれば担当外の作業まで引き取った。感謝されると嬉しいのに、帰宅後は何に腹を立てているのか分からないまま眠った。

友人が海外へ行く六週間、穂乃莉はその部屋で野々村紀葉と暮らした。紀葉は刺青の図案を描く仕事をしていて、机には消しゴムの屑や鉛筆が散らばっていた。ただし必要な場所は本人だけが分かっているらしく、穂乃莉が片づけると静かに元へ戻した。紀葉は散らかしているようで、仕事が終われば鉛筆を一本だけ削り、翌朝の最初の線に備えた。他人の整い方を借りず、自分に必要な秩序だけを守っていた。

ある夜、穂乃莉が紀葉のマグまで洗おうとすると、紀葉が流しの縁を指で叩いた。

「誰にも褒められない汚れって、いつまで敵なの?」

「朝に残すと気持ち悪くないですか」

紀葉は自分のマグを取り、代わりに穂乃莉の白いマグを流しへ置いた。

「今夜だけ、これを朝まで洗わないでみて」

理由は言わず、また図案へ向かった。

穂乃莉は紅茶を飲み終えた。底に薄い輪が残る。水で流すだけなら課題に反しないだろうか、と考えたとき、職場の同僚から資料修正の連絡が来た。明朝でも間に合う内容なのに、「今夜できる?」と書かれている。

いつもならマグを洗い、資料を直してから寝る。どちらも十分で終わる。けれど、相手にとっての十分は、穂乃莉の夜から同じ長さを切り取る。断らなければ関係が壊れないという証拠も、引き受ければ大切にされるという保証もなかった。十分ずつ差し出すうちに、夜がなくなるだけだ。

穂乃莉は返信欄を閉じた。白いマグを流しの中央へ置く。紅茶の輪は、自分が休む前に消さなければならない失敗ではない。

手を伸ばしかけ、引っ込める。

穂乃莉はマグを残したまま台所の明かりを消し、寝室の扉を閉めた。