海のない町の波音
菜摘は、海のない町へ越して二年になる。
実家では窓を開ければ潮の匂いがした。夜には波が護岸へ当たり、引き、また当たる音で眠った。今の部屋で聞こえるのは、高架道路と室外機ばかりだ。
八月の午前二時、菜摘は眠れずベランダへ出た。
足元の室外機が、ごう、と回る。
道路を車が走り、さあ、と遠ざかる。
向かいの屋上の大型空調が、低く唸る。
ごう。
さあ。
ごう。
目を閉じれば波に似ていなくもない。けれど潮の匂いはせず、風は生ぬるく、手すりには細かな砂の代わりに排気の黒い粉がついている。
菜摘は故郷の音声ファイルを再生しかけた。帰省したとき録った三分間の波音だ。何度も聞いたせいで、どの秒に大きな波が来るかまで覚えている。
再生ボタンへ触れる前に、隣のベランダで金属音がした。
かん。
誰かが室外機のカバーを直しているらしい。もう一度、かん。ネジか留め具が収まったのか、そのあと機械の振動音が少し静かになった。
「これでいいか」
低い独り言がして、ガラス戸が閉まる。
菜摘の側では、相変わらず室外機が回っている。高架の車も途切れない。
海ではない音を、海だと思い込む必要はなかった。ここにはここで、眠れない人が機械の蓋を直す夜がある。
菜摘は音声ファイルを閉じた。
ごう。
さあ。
ごう。
子どもの頃、波の音は眠るまで続くものだと思っていた。実際には漁船のエンジンや国道のトラックも混じっていたはずなのに、記憶の中では海だけが残っている。向かいのベランダに明かりがつき、誰かが濡れた髪をタオルで拭いた。白い布が二度揺れ、明かりは消えた。高架を次の車が走り抜ける。菜摘はその音から海を取り出そうとせず、町の夜に混じった一人分の生活として聞いた。潮風の代わりに、洗い立てらしいシャンプーの匂いが一瞬だけ流れ、すぐ排気の熱に消えた。
今夜は町の音を町の音として聞く。五分だけ手すりにもたれ、それから部屋へ戻ると決めた。
五分後、波は一度も来なかった。それでも菜摘は、何かを聞き損ねたとは思わずに窓を閉めた。