海苔を忘れた三角
多賀谷杏が父の家から職場へ戻ると、日付が変わっていた。
資料室の机に、父が持たせたおにぎりを置く。三角には海苔が巻かれていない。父は、杏が手に米をつけるのを嫌うと知っていて、昔から海苔だけは忘れなかった。
最近、忘れることが増えた。鍋の火、銀行の暗証番号、帰り道。先週は近所の交番から連絡が来た。杏はきょうだいに「散歩が長引いただけ」と説明した。
父を施設へ入れられるのが怖かった。弟は遠方、姉は子育て中。事情を話せば、父の家を売る話まで一気に進む気がする。
父はまだ自分で朝食を作り、庭の植木へ水をやる。できることのほうが多いのに、忘れた一つを知らせた途端、全部できない人として扱われるかもしれない。杏はそれを防ぎたかった。けれど秘密にするたび、父と外へ出る時間より、失敗を確認する時間が増えていた。守っているはずの暮らしを、杏自身が狭くしていた。杏はきょうだいから、父と関わり、父に頼られる機会まで奪っていた。だから杏は残業を切り上げて通い、失敗の跡を一人で片づけた。職場には父のことを、父には仕事のことを、どちらにも少しずつ隠した。
包みを開く。塩の匂いはほとんどなく、表面の米が指へすぐ張りついた。握りも弱く、持ち上げると角が崩れた。
杏はティッシュを探しかけて、やめた。米のついた指のまま、ひと口食べる。父が忘れたことを、なかった形へ直さずに食べた。
スマートフォンでおにぎりを撮る。海苔のない三角と、指についた米粒が写った。きょうだいのグループへ送り、〈今週から三人で予定を組みたい。交番から連絡もあった〉と書く。
送信後すぐ、弟から通話が来た。杏は出ず、まず残りを食べた。焦って説明すれば、また大丈夫と言ってしまう。
最後の角は、父が握った形を少しだけ残していた。杏はそれも口へ入れ、指についた米粒まで一つずつ食べた。
それから通話をかけ直す。何もついていない手で、父の生活を一人きりで握るのをやめるために。