湯気の消える前に
藍士は琴羽の帰宅に合わせて珈琲を淹れる。食後なら紅茶のほうがいいと言われても、外から帰った琴羽は必ず、珈琲の匂いがすると家だと思う、と言うからだ。
その晩、電車が止まった。再開時刻は未定。藍士は一度沸かした湯を捨て、豆を挽くのもやめた。挽いてしまえば香りが逃げる。待つことは、ときに何もしないことだった。
十時、再開の知らせ。十一時、混雑でまだ乗れないと連絡。藍士は台所の椅子へ座り、空のドリッパーを眺めた。冷えた器具は、出番前の楽器のように黙っている。
十一時四十分、最寄り駅に着いたと届く。藍士はそこで初めて湯を沸かし、豆を挽いた。ごりごりという音が静かな部屋を満たす。湯を細く注ぐと、粉がふくらみ、焦げた木の実の香りが立った。
ちょうど二杯目を落とすころ、鍵が回った。琴羽はマフラーをしたまま台所へ来て、湯気の上で目を閉じた。
「間に合った」
「何に?」
「この匂いに」
二人は深夜の珈琲を飲んだ。琴羽の指先はカップを包むうちに赤みを取り戻し、藍士の眠気は苦味で少し遠のいた。電車で立ち続けた話、知らない人が飴をくれた話。大変だったと言い切るほどではない細部が、湯気と一緒にほどける。
飲み終えたカップの底には、薄い褐色の輪が残った。香りはやがて消えたが、琴羽のコートから移った冬の冷気だけは、しばらく玄関に留まっていた。
琴羽は鞄から飴を一つ出し、藍士の前へ置いた。電車で隣に立っていた人が、二つくれたうちの一つだという。珈琲には合わない薄荷味だったので、明日の朝に回した。見知らぬ人の小さな気遣いまで食卓へ帰ってきたことが、藍士には少し可笑しい。洗ったカップを並べると、二つの取っ手が同じ向きを向いた。窓の結露を指で拭けば、線路の方角に冬の星が一つだけ見えた。
藍士は薄荷の飴を冷蔵庫の上へ置いた。朝の光で見つけたとき、今夜の待ち時間も、きっと少し甘く思える。