無菌室の段ボール
新薬研究所の無菌室で、朝の実験中に茶色い宅配箱が見つかった。前室の滅菌装置は一度も作動せず、入室者の防護服にも異物反応はない。そもそも繊維を撒く段ボールは持ち込み禁止だった。箱の中には、前夜から所在不明だった培養試料が収められていた。
室内にいたのは主任研究員の長谷川、設備担当の神楽坂、検査技師の不破。長谷川は試験中止を恐れ、神楽坂は装置不良を隠したく、不破は試料の取り違えを疑われていた。三人とも「外部から返された荷物」に見せれば責任の時刻を曖昧にできる。箱が見つかったのは始業点検の直後で、前室の監視員は三人が手ぶらで入る姿を確認していた。
品質監査官の岩崎が選んだ手掛かりは三つだった。箱は製造会社のロゴが内側を向き、折り線も通常とは逆方向に曲げられている。表面の微生物検査は完全な陰性で、外部倉庫の段ボールなら必ず付く胞子が一つもない。そして封緘テープの切り口には、一か所だけ山が欠けており、不破の卓上ディスペンサーの欠けた刃と一致した。
神楽坂は滅菌装置を通せば胞子が消えると言ったが、作動履歴はない。長谷川は箱が二重壁の点検口から入った可能性を口にした。しかし点検口は工具を使えば警報が出る。不破だけは、箱そのものを調べる意味はないと繰り返した。彼女は送り状の発送番号を読み上げ、外部便だと主張したが、番号の真偽は箱が外を通った証明にはならない。岩崎は番号を追わず、三つの物理的事実だけを並べた。
無菌室の棚には、試料を緊急搬出するための平たい滅菌済み梱包材が保管されている。外側に印刷されたロゴを内側へ折る仕様で、室内から持ち出す時だけ箱に組み立てるものだった。今回は逆に、室内で「届いた箱」を作るために使われた。
「内向きのロゴは棚の梱包材、胞子ゼロは箱が一度も外へ出ていない証拠、欠けた切り口は不破さんの道具を示します。あなたは室内の試料を室内の板で包み、送り状を貼った。段ボールが無菌室へ届いたのではなく、無菌室の中で段ボールになったのです。滅菌記録がないことは侵入経路の謎ではなく、外部を通らなかったという答えでした。送り状は印刷できても、外気の胞子までは偽造できない。あなたは『箱があるなら運ばれた』という思い込みを利用し、室内での取り違えを外部犯の仕事へ変えようとしたのです」