無音の印税

島守原秀一は、羽咋野響佳がピアノへ向かうと、テレビの音量を上げた。

「家で音を鳴らして遊ぶなら、夕飯を先にしろ。音楽で飯は食えない。誰のおかげで食えてるんだ」

響佳はヘッドホンを着けた。

彼女が作っていたのは、病院や睡眠施設で使う環境音楽だった。心拍や呼吸を邪魔せず、不安を和らげる旋律。子どもが眠ったあと、電子ピアノを無音出力にして何百曲も作った。

最初の採用先は、小さな産婦人科。次に緩和ケア病棟、ホテル、航空会社へ広がった。

秀一は、妻が夜中まで鍵盤へ触れているのを“現実逃避”と呼んだ。

ある日、秀一の勤務する家電会社が睡眠支援機器を発表した。製品の中心となる音響プログラムの作曲者として、響佳が壇上へ立つ。

「羽咋野響佳氏の音源は、世界二十か国の医療・宿泊施設で採用されています」

新契約の一時金は一億二千万円。再生回数に応じた印税は別で、前年の収入だけでも秀一の年収の四倍だった。響佳はすでに個人事務所を法人化し、若い作曲家へ正規の使用料を払っていた。

秀一は発表後、広報へ言った。

「妻の曲です。僕が生活を支えたから、無音で遊べたんでしょう」

広報責任者は契約資料を示した。響佳は家計費と機材費を印税から負担し、秀一名義の口座へ毎月生活費まで送っていた。家のローンも半分以上、彼女の収入で返済されている。

帰宅すると、ピアノの上に離婚届があった。

「音楽を仕事にしたからって、家族を捨てるのか」

「音楽を仕事にする前から、あなたは私の時間を捨てていたよ」

響佳は防音スタジオ付きの新居を契約し、子どもの生活費も自分で用意していた。ピアノは結婚前の所有物で、運送業者が翌朝引き取る。

秀一はテレビの音を上げた。

「俺がいなければ、誰が曲を評価する」

響佳は再生管理画面を見せた。累計再生一億回。病院から届いた感謝状が何百通も並ぶ。

新製品の発売時刻になり、世界中の端末で響佳の曲が流れ始めた。離婚届を机へ置いた彼女がヘッドホンを外す。

家の中が初めて静かになった瞬間、秀一が無音の遊びと笑った旋律から巨額の印税が発生し、夫の声だけが響佳の人生から停止された。