熱で戻る言葉
沢渡壱依は珈琲店「灯標」で、心療内科の予約画面を閉じようとしていた。
病院からは当日、体調を尋ねる短い連絡が来ていた。壱依は通知を消し、返事をしなかった。その沈黙が日に日に大きくなり、今さら予約すれば責められるという想像まで、自分で育ててしまった。
休職の期限も、復職するか辞めるかも、まだ決められない。壱依は全部を決めてから受診しなければならないと思い込み、その一日を先へ延ばしていた。
休職して一か月。最初の二回は通えたが、先週の予約を無断で休んだ。医師に会えば、眠れないことも、復職日の通知を見るだけで吐き気がすることも話さなければならない。もう予約しないほうが、迷惑を増やさずに済む気がした。
店主が出した黒いカップには、何の模様もなかった。長く使われ、艶のない部分が雲のように広がっている。
壱依が考え込むうち、コーヒーは冷めた。すると側面に、灰色の文字が浮かんだ。
〈また明日〉
古い温度変化のカップらしい。熱いと黒く隠れ、冷めると文字が現れる。店主は壱依の残したカップを見て、ポットから少量だけ熱いコーヒーを足した。文字はゆっくり黒へ沈み、見えなくなった。
店主は離れたが、しばらくすると液面が冷え、同じ言葉が戻った。消えても終わったのではなく、温度が変わればまた現れる。
壱依は予約画面を開き直した。空きは明後日の午後に一つだけ。押しかけて謝る場面を想像し、指が止まる。
会計で店主は、伝票の日付を一日間違えて書いた。すぐ二重線で消し、正しい日付を隣へ書く。新しい伝票へ替えず、訂正印だけを小さく押した。
壱依は席へ戻り、病院へ短いメッセージを送った。
〈先週は連絡せず休んでしまい、申し訳ありません。もう一度予約を取りたいです〉
明後日の空きを選び、確定を押す。
黒いカップの文字は、また薄く現れ始めていた。壱依は「明日」を指で隠し、「また」だけを見る。
店を出る前、休職中の予定表へ受診時刻を入れた。それ以外の欄は、白いまま残した。