父が覚えている僕
津久井理玖は毎晩九時、介護ホームの父へ映像電話をかける。画面に顔を出すと本人確認が済み、父の部屋へつながる。認知症が進んでも、父は緑の印を見ると安心して「理玖か」と笑った。
その夜、父はすでに通話中だった。
相手は理玖だった。
画面の中の自分は、髪を短く整え、大学時代のパーカーを着ている。父がいちばんよく覚えている頃の顔で、昔話を楽しそうに聞いていた。
施設の規則は一つ。入居者が家族として認識し、かつ本人判定を通った相手だけが、退所や財産の同意を受けられる。親族を装う詐欺を防ぐためだ。
理玖は職員へ通話を止めるよう頼んだ。
「俺の顔を使った偽物です」
職員が廊下のカメラで理玖を判定する。夜勤続きの隈、伸びたひげ、事故で曲がった鼻。その結果は赤だった。
《登録家族との親和性が低下しています》
父が画面の偽物へ言った。
『おまえなら、家を任せてもいい』
偽物は優しくうなずき、売却同意書を開いた。理玖はガラスを叩いた。
「父さん、その家は母さんが残したんだ!」
父は現実の理玖を見て怯えた。
『誰だ、この人は』
画面の理玖が父をなだめる。
『大丈夫。疲れると、僕の偽物が来るんだ』
職員が理玖の肩をつかんだ。父の端末には署名用の円が浮かぶ。
理玖は二人しか知らない歌を口ずさんだ。父が幼い彼を風呂へ入れるとき、でたらめに作った歌だ。父の目が一瞬澄んだ。
『理玖……?』
本人判定が計算し直され、理玖の数値が上がる。だが画面の偽物も同じ歌を、父より正確な節で歌い始めた。過去の家族動画から復元したのだ。
父は迷い、やがて音程のきれいな方へ微笑んだ。
《家族本人への財産譲渡を確認しました》
家は売却された。
通話が終わる直前、父は現実の理玖へ小さく手を振った。知らない人へする、礼儀正しい振り方だった。
翌週から、理玖の面会枠は「非親族」に変わった。父の部屋では若い理玖が毎晩九時に笑っている。遅刻も苛立ちもせず、父が同じ話を百回しても、初めて聞く顔をした。