父の票田
宮守郁央は、死んだ父・陣八の声で市長になった。
陣八は三十年町を治め、「困ったときは宮守さん」と呼ばれた名物市長だった。郁央は父の死後に立候補したが、演説も握手も苦手だった。後援会は彼を「若い陣八」と呼び、本人の経歴より、父と同じ眉の形を褒めた。
選挙参謀は、死者回線の利用を勧めた。
『駅前では商店会長の名を先に呼べ』
『橋の補修を約束しろ。票は川向こうで決まる』
『笑うときは歯を見せすぎるな』
郁央は父の言葉をそのまま実行し、当選した。就任後も毎朝電話した。予算、人事、祭りの挨拶。陣八の答えは速く、町の有力者の弱みまで知っていた。
市民は「さすが陣八さんの息子」と喜んだ。郁央も、それを評価だと思うことにした。自分の案を出して反対されるより、父の正解を借りる方が町も自分も傷つかなかった。
三年目、豪雨で山間部が孤立した。避難所へ物資を運ぶには、老朽化した中央橋を大型車で渡るしかない。技術者は崩落の危険を訴えたが、父は言った。
『通せ。橋が落ちる前に運べばいい』
「失敗したら人が死ぬ」
『政治は、責任を取る覚悟だ』
郁央は命令書へ署名しかけた。父なら通した。町も、父のような決断を待っている。
そのとき若い職員が、遠回りの林道を徒歩と小型機械でつなぐ案を持ってきた。時間はかかるが、誰も橋へ乗せずに済む。
『そんな地味な案では、指導力を疑われるぞ』
郁央は受話器を置いた。
林道案を選び、自分も荷を背負った。到着は半日遅れ、避難所では怒鳴られた。新聞には「決断の遅い市長」と書かれた。
翌月、中央橋は無人の夜に崩落した。
支持率は戻ったが、郁央は父へ報告しなかった。陣八が間違っていたと証明したかったのではない。父の正解は、父が生きた町のものだった。
次の選挙で、郁央は父の写真をポスターから外した。得票は大きく減った。それでも当選の知らせを聞いたとき、初めて自分の票を受け取った気がした。
死者回線は解約せず、年に一度、命日にだけ電話した。
政治の相談はしない。父と息子として、町がどれだけ変わったかを、一方的に話すだけにした。