片耳ぶんの沈黙
最終電車が来るまで、あと八分だった。
飯島美月はホームのベンチで、ワイヤレスイヤホンを両耳へ押し込んだ。隣には武内倫太郎がいる。彼は明日、実家の店を手伝うため町を離れる。
「音、流れてる?」
「聞こえない」
本当は何も再生していなかった。美月は誰かと二人きりになると、無音でもイヤホンを着けた。話したくないわけではない。沈黙が怖かった。
以前の恋人は、怒る前に必ず黙った。食器を置く音も、呼吸も消し、長い沈黙のあとで不満を一つずつ告げた。美月は静かな部屋にいるだけで、次に傷つく言葉を待つようになった。会話が途切れると心拍が上がり、テレビでも換気扇でも、とにかく音のするものを探した。倫太郎と過ごす穏やかな時間にも、音楽を詰め込んだ。彼が景色を見ながら黙るだけで、美月は自分が何か間違えたのだと思った。だから笑顔も返事も、いつも必要以上に急いだ。
ホームの時計が二十三時四十九分を示す。
「最後に言いたいことがある」
「電車来るよ」
「だから今」
「聞こえないから」
美月はイヤホンを指した。逃げるための嘘だと、倫太郎も分かっていた。
彼は無理に外さず、ベンチの端へ座り直した。
「じゃあ、聞こえるまで待つ」
「最終、乗らないと」
「次の町に行く電車は明日もある」
発車案内が点滅する。線路の向こうから白い光が近づいた。美月は、沈黙のあとには必ず別れが来ると思っていた。だから自分から音を足し、言葉が届く前に帰った。
けれど倫太郎の沈黙には、責める気配がなかった。ただ待っている人の静けさだった。
美月は右耳のイヤホンを外した。まだ片方は残す。
「聞こえないんじゃない。聞きたい」
倫太郎は短く、「離れても会いたい」と言った。美月は左耳も外し、ケースへしまう。到着した最終電車の扉が開いたが、二人とも立たなかった。
扉が閉まり、風だけがホームに残る。美月は何も流れていないイヤホンケースを鞄へ入れ、次の言葉が来るまでの静けさを、初めて逃げずに聞いた。