牛たたきの薄いところ
烏丸孝弥が「火影」へ入ると、店主は冷蔵庫から牛肉の塊を出した。
「薄切り。中は赤いままでいいんだろ」
孝弥は転職前、この店で牛たたきを頼むたび、厚いと噛み疲れるから薄くしてほしいと言っていた。五年ぶりでも、店主の包丁は迷わなかった。
肉の表面が鉄板へ触れ、短く鋭い音がした。焼けた脂の香りが上がり、冷水で締めた肉を切ると、外側は茶色く、中心は深い赤を残している。薄い一枚を舌へ載せると、炙った縁は温かく、内側はひんやりしていた。
孝弥は競合会社から誘われている。
年収は今より上がり、やりたい製品にも関われる。ただ、担当者は昨日の面談で「君が持っている顧客の更新時期が分かれば、準備しやすい」と言った。資料を持ち出せとは言わなかった。記憶している範囲でいい、と笑った。
孝弥はその場で否定しなかった。転職するなら、少しくらい土産が必要なのかもしれない。現職も、自分を便利に使うだけで昇給を先延ばしにしている。義理を守る相手ではないと思った。
それでも帰宅後、顧客一覧を頭の中で数え始めた自分が嫌になった。
現職では、顧客情報を守る研修を毎年受けている。孝弥はそのたび、当たり前の話だと思っていた。転職という言葉が付いただけで、当たり前の輪郭が急に薄くなった。相手が明言しないのも、責任をこちらへ残すためだと気づいていた。
「火は、表だけだ」
店主が肉を指した。
孝弥は赤い中心を見た。焼いたふりをしても、中まで同じ色にはならない。
担当者へのメールを開く。
〈顧客情報や更新時期は、記憶している内容も含めて共有できません。その条件がなくても選考を続けられるか、明日ご回答ください〉
送信した。話が消える可能性は高い。現職へ残れば、また評価に不満を抱く。別の転職先を探す時間もかかる。
それでも、欲しい仕事と、持っていってはいけないものを同じ皿へ載せるのはやめた。
最後の一枚は、皿の冷たさを吸っていた。炙った香りは薄れず、赤い中心の冷たさと縁の温度が、舌の上でしばらく分かれたまま残った。