猫の通り道
雨が降ると、杏佳のアパートの廊下に三毛猫が来る。
飼い猫ではない。首輪もなく、触ろうとすると逃げる。ただ、二階の突き当たりは風が当たらず、雨宿りにちょうどよいらしい。
杏佳は帰宅するたび、少し離れてしゃがんだ。猫は濡れた前足を舐め、こちらを見ない。
ある晩、隣室の住人、透真も廊下へ出てきた。手に古いタオルを持っている。
「拭かせてくれないんですよ」
「私も三か月挑戦してます」
二人は猫を挟んで距離を取り、床へ座った。雨音が外階段を叩き、コンクリートから湿った匂いが上がる。
透真はタオルを猫の近くへ置いた。猫は警戒したあと、その上に前足だけ載せた。
「半分成功ですね」
杏佳が笑うと、猫は一度だけ耳を動かした。
翌朝、猫はいなくなり、タオルには泥の足跡が四つ残っていた。透真は洗おうとしたが、杏佳が先に写真を撮らせてもらった。
それから雨の日には、廊下へ乾いたタオルを一枚置いた。猫は少しずつ中央で眠るようになった。
二人も名前を相談するようになったが、決まらない。雨、雫、三毛。どれも呼ぶと振り向かない。
秋のある日、晴れているのに猫が来た。タオルの上で丸くなり、杏佳が置いた指の匂いを初めて嗅いだ。
触れはしなかった。それでも濡れていない毛から、日なたと埃の温かな匂いがした。
透真が新しいタオルを持ってくる。廊下には雨音がない。二人は声を潜め、猫が眠るまで、乾いた床へ並んで座っていた。
猫には結局、名前がつかなかった。杏佳は「来たね」と呼び、透真は「おかえり」と言う。冬の雨の日、二人が帰るとタオルの上に小さな枯葉が置かれていた。猫が運んだのか、風で来たのか分からない。杏佳は葉を拾い、玄関の棚へ置いた。濡れた毛を初めて一度だけ撫でると、猫は逃げずに目を閉じた。指先には雨と日なたが混じった、名づけにくい温度が残った。
翌朝、タオルには三毛の毛が一本ついていた。杏佳は透真へ見せ、二人で笑う。捨てずに端へ残すと、乾いた布にも猫の眠った場所だけ小さな窪みがあった。