獣王の爪が届かない餌

獣王ガズハーンは、人間セトゥラを餌として闘技穴へ落とした。

人間は逃げなかった。穴の隅にうずくまる白い獣の子を背にし、両腕を下ろして立っている。獣王の群れから追い出された幼子を、勝手に守るつもりらしい。

「弱者をかばえば、二匹まとめて死ぬ」

ガズハーンは右爪を振った。岩を裂く一撃が人間の胸へ向かう。

セトゥラは動かない。

それなのに爪は彼の外套をかすめる寸前で地面へ逸れ、深い溝だけを刻んだ。獣王は自分の腕へ怒鳴った。筋肉も目も、狙いを誤っていない。

観客の獣たちがざわめく。

「小さく避けたのだ。ならば穴ごと潰す」

ガズハーンは獣化を完成させ、巨体で跳び上がった。奥義《山喰い》は四肢と衝撃波で闘技穴全体を砕く。逃げ道はおろか、立つ地面さえ残らない。

巨体が落ち、岩煙が空を覆った。

煙が晴れる。

セトゥラは両腕を下ろした同じ姿勢で立っていた。背後の獣の子は彼の脚へしがみつき、尻尾まで無傷だ。地面は二人の周囲だけ柱のように残り、獣王の四肢はその外側へ着地している。

観客席の老獣たちは、白い子の首にある王族の斑紋を見つけた。先代獣王の忘れ形見を、ガズハーンは餌と呼んで始末しようとしていたのだ。ところが群れの掟より先に、異種族の人間が子を守った。獣たちの唸り声は人間ではなく、王座に立つガズハーンへ向きを変えた。セトゥラは王座を望まず、ただ子を穴の外へ出すよう求めた。その無欲さが、獣王の恐怖をさらに濃くした。力を誇る王より、爪を使わず守る人間へ群れの視線が集まる。もう誰も笑わなかった。

ガズハーンが異常に気づいたのは、爪も牙も本能も、命中の瞬間だけ人間を「襲ってはならないもの」として避けたからだ。

「貴様、獣を操るか」

「いいや」

セトゥラは子供の頭へ手を置く。

「私は昔から、殺そうとしたものに避けられる。お前の爪も例外ではなかっただけだ」

獣の子が初めて獣王へ牙を見せる。

群れの前で二度外したガズハーンは、三度目の爪を上げられず一歩退いた。