白無垢の袖をまくる

小鷺紬が白無垢のまま神社の台所に現れたとき、大槻晶は湯のみを洗っていた。

親族控室では、新郎の父が乾杯の挨拶を練習している。その中に、「紬さんには救急救命士を辞めてもらい、秋から当館の若女将として」という一節があった。

新郎の家は山あいの旅館を営んでいる。手伝う話は聞いていたが、仕事を辞めるとは決めていない。新郎は「結婚すれば気持ちも変わる」と父に訂正しなかった。

晶は家業を継ぐため、好きだった設計事務所を辞めた。後悔がないわけではないが、家族の仕事を引き受けるのも一つの生き方だと思っている。紬が夜勤の多い仕事に固執する理由は、何度聞いても少し遠かった。

「人の命を助けたいって、きれいごとだけじゃないよ」

紬は言った。「辞めるかもしれない。でも、今日決められるのが嫌」

晶は湯のみの水を切り、手を拭いた。白無垢は一人では脱げない。衣装係を呼べば親族に見つかる。晶はスマートフォンで着付けの手順を確かめ、帯ではなく打掛から外すことにした。

「腕、上げられる?」

紬が両腕を伸ばす。晶は刺繍の重い袖を片方ずつ支えた。鶴の模様が床に触れないよう、台所の長椅子へ畳む。紬も反対側の袖を抱え、二人で同じ高さまで持ち上げた。

下の掛下まで脱ぐと、紬は汗で濡れた襟元をタオルで拭いた。晶は予備の作務衣を貸した。旅館を継いだ自分の服を、継がないかもしれない紬が着る。そのちぐはぐさに、二人とも笑わなかった。

晶は式をやめるべきだとは言わない。紬も、家業を選んだ晶を不自由だとは言わない。選択の形ではなく、誰が選んだかだけを確かめた。

紬は新郎へ電話をかけ、挨拶文を撤回し、二人だけで話せるまで式を始めないよう求めた。返事を待つあいだ、晶は白無垢を衣装袋へ戻す。紬も袖口を整え、薄紙を挟んだ。

神社の表では雅楽が鳴り始めたが、二人は急がなかった。重い衣装を片側ずつ持ち、社務所へ返しに行く。

石段の前で、晶は自分の袖をまくった。紬も作務衣の袖を同じ幅だけ折った。

二人は白無垢を担ぎ直し、式場とは別の建物へ運んだ。