白紙の楽譜
映画主題歌の世界配信が決まると、加納一馬制作部長は祝賀会で「権利交渉も編曲方針も、すべて私がまとめました」と挨拶した。
御厨詩津は会場の隅で、演奏者へ譜面を配っていた。作曲家と半年かけて曲を作り直し、海外二十地域の権利を整理したのは詩津だった。加納は完成音源を聞くまで一度も打合せに来ず、配信決定後にプロデューサー欄を自分の名へ替えた。
レコード会社の春日井佳依代表が、一枚だけ何も書かれていない譜面を掲げた。
「加納さん。三十二小節目が白紙なのは、なぜですか」
加納は笑った。
「演奏者の自由を引き出す、私なりの演出です」
「では、自由に何を演奏してもいい?」
「もちろんです」
佳依の顔から笑みが消えた。
詩津はマイクを受け取った。白紙は即興の指示ではない。映画で主人公が亡き姉の声を思い出す場面に合わせ、全楽器が一拍だけ音を止める。譜面へ休符を書かなかったのは、作曲家が「不在を記号にしたくない」と望んだからだ。指揮者と演奏者には、別紙でその意味を伝えてある。
会場の弦楽四重奏が、問題の箇所まで演奏した。一拍の無音のあと、旋律が戻る。客席のあちこちで息を呑む音がした。
加納は拍手しながら言った。
「御厨には、私の感性を丁寧に共有してあります」
佳依は配信契約の交渉記録を映した。加納の発言は二つだけだった。
《無音部分は配信で飛ばされるから埋めろ》
《作曲家名より会社名を大きく》
「私たちが託したのは、作品の沈黙を守った御厨さんです。加納さん、あなたとは仕事をしていません」
佳依は世界配信と続編二作の契約書を開いた。
「御厨詩津を統括プロデューサーとすること。加納さんがクレジットや音源へ触れた場合、全権利を引き上げます」
社長がその場で詩津へ正式辞令を渡し、加納の名札を壇上から下ろした。
演奏が終わり、スクリーンに新しいクレジットが流れた。白紙の一拍のあと、最初に現れたのは「PRODUCED BY 御厨詩津」。加納の名前が入る余白は、もうどこにも残っていなかった。